今、世界にはさまざまな宗教があります。
なぜこれほどまでに多くの宗教があるのか、それは宗教は人が造り出したものだからです。神をどのように感じるかは、人それぞれです。神をどのように受け入れるかによって、異なった宗教が生まれてくるのです。唯一の神は一つですが、その受け取り方が異なったがために多くの宗教ができたのです。
世界三大宗教と言えば、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教です。仏教を入れる場合もありますが、一般的には、この三つの宗教が三大宗教と言われています。この三つの宗教の聖地は同じで、古くはユダヤ教から始まり、キリスト教。イスラム教が誕生しました。元は同じ神を時代とともに解釈の仕方を変えていったのでしょう。
仏教もそうです。特に日本ではさまざまな宗派に分かれています。釈迦の教えをどのように解釈するかで、新しい宗派が生まれるのです。それは今でも続いており、時には従来の宗派と争うことになります。どのように解釈するかは人それぞれなので自由なのですが、それを他の人に押し付ける所に問題があるのです。自分の信じる神仏が一番だと思い込んでしまう所に、宗教の大きな問題があるのです。
今までどれほどの宗教戦争が行われてきたことか、自分の信じる神が絶対だという、うぬぼれが根底にあるのです。
本来神は一つなのに、今も宗教にからんだ戦争やテロが生じています。そこには神の名をかりた、我欲を満たすためのおろかな過ちがあるのです。神のためと称して人を殺し、物を奪う、さらには人をだましたりおどしたりします。神の名を出せばすべてが許されると思っているのです。普通に考えたらおかしいことです。しかし、集団化すると悪も善になってしますのです。人の心には善と悪があります。そのバランスがくずれてしまうのです。善を突き詰めると悪に変わるのです。そのことを知らない人が集まると、とんでもないことをしてしまうのです。
人が造った宗教は、そろそろ不要な時代になってきました。神は一つであり、それぞれが自分なりに信じていけばよいのです。神をどのように信じるかは自由であり、人の信じ方に対して批判する必要もありません。だれが正しいとか正しくないとかもありません。それぞれに神を敬えばよいのです。そんな時代がやって来ました。
したがって今までの宗教は不要なのです。ただ、神に対する接し方や取り組み方はそれなりの決まりがあるので、最低限は守るとよいでしょう。そして従来の神仏を信じることも自由ですが、いつまでも自分が信じる神仏が、すべてであるとは思わない方がよいでしょう。いろいろな神がいることを認識すべきでしょう。そしてそれを認めるべきでしょう。
宗教はとてもデリケートな所があります。このようなことを書くと、思わぬところから反発を受けるかも知れません。しかし、よく考えてください。神仏がどうして存在するかを。目には見えない存在をあると信じることが宗教の始まりです。見えないからこそいろいろな解釈がされるのです。見えていたらみな同じ解釈をすることでしょう。どのように解釈するかは、人それぞれであることをしっかりと受け入れることが必要です。どの宗教が一番偉いかを競うことは愚の骨頂と言えるでしょう。
20年後の宗教は、今のような形式ではなくなっています。何々教とか○○宗と言う肩書はなくなっているでしょう。なぜなら、皆一つの神をあがめるからです。それは宗教ではなく、神道と言われるものです。今の神道ではありません。本来の神道は、ただ神を信じあがめるだけなのです。日頃の感謝の気持ちを伝え、加護をお願いするだけなのです。そして、いつも神を意識していく生活をするだけなのです。教祖もいなければ僧侶もいません。ただ、神とのつながりを導いてくれる人がいるだけです。その人もただそのお役目をするだけで、特別な人ではなく普通の人なのです。だれかを祭り上げるようなことはありません。それをしたら宗教になるからです。
ただ、やはり人の心は弱いものです。苦しいことがあると、ついつい何かにすがりたくなるものです。その時、神仏の存在を意識するのですが、やみくもにすがるものではないのです。苦しくても神を信じ、自分で切り開いていくことが大切なのです。何かにすがることは簡単であり、安易なことです。苦しさの中に、神に対する思いを深めていくのです。人は苦しい思いをしないと、神仏の存在を意識しません。ある意味、苦しい思いをするのは、神仏を思い出させるためなのかもしりません。
20年後にはきっと多くの人が、日頃から神を意識した生活をするようになるでしょう。神を意識するとは、感謝することです。すべての物に対して感謝することが、神を意識することになるのです。人だけでなく、身の回りの物や植物、動物、そして虫や雲に対しても。それが神道なのです。日本は古来より神道が根付いていました。
しかし、仏教が伝来し、さらに明治時代に神道がゆがめられてきたため、本来の神道がすたれてしまったのです。再度、神道をよみがえらせ、世界に広げて行くことが必要になってきたのです。
おそらくこれから日本の神道が世界に広がっていくでしょう。そして、それぞれの宗教はなくなっていくでしょう。そうすれば戦争やテロもなくなっていきます。宗教の時代は終わりました。そのことをしっかりと自覚していきましょう。
人はどうして生まれてきたのか、どうして死ぬのか、それぞれの宗教がそのことを探求してきました。共通していることがあります。どの宗教も神仏の元に帰るということです。帰るということは、そこから来たということです。つまり、神仏の世界から私たちは来たのです。何のために、それはこの世でいろいろな体験をして成長するために。神仏の世界では、体験できないことをするために生まれて来たのです。神仏の世界では、苦しむことも悲しむこともありません。なぜなら、すべてが思うがままになるからです。思った通りになれば、苦しむことも悩むこともないのです。そのためいつも幸せな状態にあるのです。
しかし、いつも幸せな状態でいると、幸せであることを忘れてしまいます。空気がいつもあることを忘れてしまうように。水の中に入って、苦しくなって初めて空気のありがたさを実感することと同じように、思い通りにならないことがあって初めて幸せを実感できるのです。
人は神仏の子であり、本当はそれぞれの中に神仏が宿っているのです。そのことを忘れてしまい、神仏を遠ざけてきたのです。そのことが最大の問題なのです。神仏を遠ざけてきたために、その償いとして神社や仏閣を建てて来たのです。わざわざそのような物を建てる必要はないのです。なぜなら、人は神仏だからです。
そのことを一人一人が思い起こすことが、本当の意味での宗教なのです。宗教とは、神の子であることを再認識するためのものであり、神仏をあがめるものではないのです。あがめればあがめるほど神仏から遠ざかっていくのです。なぜなら、神仏と自分は異なるものであることを認めているからです。