菩薩が本来の御役目を大いに果たす時がやってきました。今までは、人々を少しでも良い方向に従わせようと、さまざまな形で導いてきたのですが、いよいよ大元の神が神判を下される時がやって来たため、一人でも多くの人を残すために懸命に動き出したのです。菩薩の切なる思いを受け取ることができる人だけが、残されるのです。
【如意輪観音菩薩】
「我は如意輪観音菩薩なり。我は人々の願いを叶え、煩悩を消し去ると言われているなり。されど、それはまちがいなり。願いはある意味で煩悩なり。煩悩を消し去れば、願いはなくなるなり。そのことは至極当たり前のことなり。ただし、人のための願い事であれば、我は叶えるなり。そのことをしかと心得るがよい。我の役目は他にあるなり。我は我欲にとらわれている人を目覚めさせるなり。どのように目覚めさせるのか、時には優しく、時には厳しく、されどどうしても目覚めなければ厳しい処断を下すなり。「仏の顔も三度」と言われるように、いつまでも目覚めぬ人は、生きている価値は無し。そのことをしかと心得るがよい。仏と言えども、鬼に変わることもあるなり。人の心に巣食う鬼を追い払うには、鬼にならねばできぬなり。鬼は仏の裏の顔なり。人も時には鬼になるなり。鬼に対しては鬼として対峙し、仏の顔であれば仏として接するなり。その人しだいであるなり。」
【普賢菩薩】
「我は普賢菩薩なり。我は人々に善の心と悪の心の存在を伝えるなり。人は善と悪の心を持っているなり。いつもその狭間で揺れ動いているなり。それを体験するために生まれて来たなり。しかし、人は悪の心に傾きやすくあるなり。それをくい止めるのが我の役目なり。なぜ悪の心に傾くのか、それからいかに脱却するかを経験するために生まれて来たなり。つまり、甘い蜜に誘われても、己の心をいかに強く持てるのかを試されているなり。それは、大元の神の采配なり。それをどこまで耐えていけるかが、人としての存在意義でもあるなり。人は時として獣になる時もあるなり。獣のままでいると、いずれは邪神に取りつかれて自滅するなり。そうならないように導くことが我の役目なり。されど、邪神に取りつかれる人は後を絶たず、我の力でも防ぎようがないほどになって来たなり。そこで我は、大元の神にさらなる御力を授けていただけるように願ったなり。この度、その力を授けていただけることとなったなり。我はこれから、悪の心に傾きし人の目を覚まさせるなり。今までのように優しき形で目覚めぬならば、厳しい処断を下すまでなり。重たい病となり、生死をさ迷うことになるやもしれぬ。事故などで大けがをして、片足、片腕を失くすやもしれぬ。さらには、最愛の人を亡くすやもしれぬ。失うことで目覚める人もあるなり。それでも目覚めぬ人は、自滅するなり。生きている価値はなきなり。そのことをしかと伝えるなり。」
みなさんが考えている仏様像とは、かなりかけ離れていると思われたでしょう。しかし、今までとはもう異なるのです。今までのような慈悲を与えてくれる存在ではないのです。そのことを多くの人は知りません。「仏の顔も三度」はすでに過ぎ去っているのです。
【馬頭観音菩薩】
「我は馬頭観音菩薩なり。我の頭上に馬の顔があるのは、人々のあらゆる煩悩をこの馬が食べ尽くすためなり。人は生きていく上でさまざまな煩悩を生み出すなり。食べること、寝ること、少しでも良い暮らしがしたいと思うこと、異性を求めること、さらには他の人を支配することなど、際限はなきなり。生きていくための最低限の我欲は必要なり。されど、際限なくむさぼり尽くすことは、身を滅ぼすなり。そのようなことにならぬように、我の力で不要な我欲を処分するなり。人は、我欲をなかなか手放さないため、我は鬼のような形相になりて諫めるなり。我は願い事を叶える仏にあらず。己の我欲を少しでも小さくしたいと思う人は、我の元に来るがよい。さすれば、我の頭上の馬が我欲を食べてくれるであろう。」
【十一面観音菩薩】
「我は十一面観音菩薩なり。我は十一の顔を持つなり。なぜなら、あらゆる人々を救うためなり。病や貧しさで苦しんでいる人、孤独や悲しみで苦しんでいる人、人の妬みや嫉妬で苦しんでいる人、さらには、戦や神の怒りによって天地が激しく揺れて、すべてを失って苦しんでいる人などを救うなり。どのようにして救うのか、我の手足となりて働く人を差し向けるなり。その人たちが寄り添い、そして支えてくれるであろう。そして、時には奇跡と思えるようなことで救うなり。されど、そのためには、日々感謝と謙虚さを実践せねばならず。そして、わずかながらでも人のために何かしらのことをするなり。たとえどんなに苦しくても、人のことを思いやれる心を持つようにするなり。我は、そのような人を救うなり。己のことばかり考えている人は、救うことはできぬなり。」
【日光菩薩・月光菩薩】
「我らは日光菩薩、月光菩薩なり。我らは薬師如来の脇侍となりて、病む人を救うなり。人が病むのは、それまでの生き方や考え方を見直して、改めるためなり。人はどうしても我欲に走り、感謝と謙虚さを失うなり。それゆえ、病になりてそれまでの在り方を見直すことが必要なり。されど、多くの人は薬や小手先の手直しによって、ゆっくりと考えることもなく、今まで通りの生き方をしていくなり。そのようなことを続けていると、いずれは自滅するなり。薬によって治ったかのように錯覚しているだけゆえ、いずれは大きなツケが回ってくるなり。そのような時はすでに元の体に戻ることはできぬゆえ、苦しみもがいて亡くなるなり。そのような人があまりにも多すぎるなり。あまりにも安易に薬に頼りすぎているなり。今の病、薬にて本当に治る病はなきなり。病を元から治すのは、感謝と謙虚さの実践だけなり。そのことを悟らせることが我らの役目なり。再度伝えるなり。病はそれまでの考え方や生き方を見直すためのものなり。それを安易に薬や小手先の手直しで治そうとすれば、いずれは自滅するなり。感謝と謙虚さを実践している人だけを我らは救うなり。」
今、さまざまな薬が開発されて、多くの病気が治ると言われています。しかし、実際には病気で亡くなる人は確実に増えていて、薬の乱用が拡大しているのです。そのことをしっかりと認識してください。さらに、コロナやインフルエンザのワクチンがさかんに打たれていますが、効果がどれくらいあるのかもわからず、副作用は確実に出てきているのです。ガンにかかる人も確実に増えていて、多くの人が抗ガン剤治療を受けています。しかし、長い間抗ガン剤治療をしていると、最終的にはガンで亡くなるのではなく、抗ガン剤の副作用でなくなっていくのです。闘病と言う言葉がありますが、病気と闘って勝つ人はほとんどいません。病気は闘うものではなく、受け入れていくものなのです。