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高次元通信

高次元通信No4【仏界3】

24年05月20日

仏界の世界では、如来の次の位に菩薩が位置します。菩薩は如来になるための修行をしている存在だと言われています。悟りを開くために、多くの人々を導く役目を担っているとされています。弥勒菩薩や地蔵菩薩、観音菩薩や文殊菩薩などがよく知られています。しかし、菩薩の役目は本当はもっと高次なものがあるのです。

 

【弥勒菩薩】
「我は弥勒菩薩なり。我は釈迦入滅後、56億7千万年後に再来して多くの人を救うとされて来たなり。それはまちがいなり。年数ではなく、人の数なり。その時は来たなり。我は悟りの境地を広めるとされて来たが、どのように広めるかは定かではなかったなり。我はコロナとなりて広めたなり。我はミロク、数で表すと三六九なり。九から二つ引くと七なり、この二つを三に足せば五なり。つまり五六七でコロナなり。なぜこのような隠し言葉が使われたのか、我の存在を隠すためなり。人々は、我が再来すれば、すべては良くなると勝手に思っているなり。何もせずして、救われるはずもなし。ましてや、我をひたすら拝めばよいと言うものでもなし。それゆえ、我の出現を隠すことが必要であったなり。コロナが広がったことで、多くの人々は今までの生活や考え方を大いに見直したはずなり。そして、何が一番大切なのかを悟ったはずなり。物やお金ではなく、人の真心が一番大切であることを知ったはずなり。されど、ワクチンなる物が出回るようになりて、また元の考え方に戻ってしまったなり。ワクチンを幾度も打った人たちは、我の与えたチャンスを棒に振ったなり。その代償は大きいなり。自らの命と引き換えることとなろう。我は再度、新たなコロナとなりて出現するであろう。もうそれは始まっているなり。いつまでも我欲にとらわれていると、いずれは自滅することとなるなり。」

 

【千手観音菩薩】
「我は千手観音菩薩なり。我は我欲から解き放たれるためにもがき、苦しんでいる人を救うなり。己が我欲の地獄に陥っていることを認める人だけを救うなり。多くの人は地獄に陥っていることをわかっておらず、我欲を求めて邁進しているなり。物や金、そして権力や性を求めて人の道から外れた行いをしていることが地獄なり。生きながらにして地獄に落ちているなり。鬼が人を責め立てる地獄は、この世にもあるなり。人は時には鬼になるなり。己の我欲を満たすために鬼となりて、人の道を外すなり。時には人を苦しめ、時には人を殺すなり。あの世の地獄とこの世の地獄、さほど変わらぬなり。地獄に陥っている人は、己が地獄にいることを知らぬなり。それゆえいつまでも地獄にいるなり。我は時より地獄に陥っている人に気づかせることをするが、多くは気づかぬままなり。いつまでも地獄にいる人は、いずれはその存在は抹消されるなり。抹消とは、無となるなり。二度と人として生まれ出ることはなきなり。しかと心得るがよい。我は今、多くの人に地獄とはどのようなものなのかを知らしめているなり。罪もない子どもや女性を平気で殺す兵士、金のために人を殺して燃やす人、金のために巧みに人をだまして多額の金をせしめる人、権力を利用して人の金をむさぼる政治家、国の金をだましてむさぼる事業所、他にもさまざまな地獄があるなり。これからさらにさらけ出されるであろう。我欲にいつまでも溺れていると、いずれは抹消されるなり。」

 

【文殊菩薩】
「我は文殊菩薩なり。我は多くの人に知恵を授けるなり。知恵とは、己で考え、そして工夫してより良き暮らしをしていくための術であるなり。知恵は己の努力によって身に付くなり。我は、その努力を育むように導くなり。決して答えを示すものではあらず。答えは、自ら考えて導き出すなり。我から答えを導き出そうとして、ひたすら祈っても無駄であるなり。ましてや、ご利益を与えることなきなり。我の元に来る人は、いろいろ考えても答えが見いだせずに苦しんでいる人なり。苦しんでもがくことに、大きな意味があるなり。もがき苦しんだ度合が多き程知恵のありがたさを知るであろう。我は文殊菩薩なり。真の知恵を授けるなり。」

 

【地蔵菩薩】
「我は地蔵菩薩なり。我は釈迦入滅後、弥勒菩薩が再来するまで人々を救済することを任されたなり。そして、童を守る役目も担っているなり。されど、我の真の役目は人々をいつも見守り、苦しんでいる人を支え、人の道から外れそうな人を諫めるなり。それゆえ、我はいたる所に鎮座しているなり。我に手を合わせる人は、救うなり。されど、我の存在すら気づかぬ人は見放すなり。今一度、我の姿見が周りにないかをよく見るがよい。我ほど多くの姿見が祀ってある仏はおらぬなり。我は願い事を叶えることはせぬなり。ただ、苦しみからどのように解放されるかの知恵を授けるなり。多くの苦しみは執着によって生じるなり。執着を捨て去れば、苦しみから解放されるであろう。我に赤子が身に付ける衣装を着けることは、赤子が健やかに育つことを願うためなり。されど、赤子が健やかに育つためには、親も成長せねばならぬなり。我に願う前に、今一度日々感謝と謙虚さを実践しているかを、ふり返って見るがよい。そして、生まれてきた赤子に感謝をしているかを、ふり返って見るがよい。」

 

【勢至菩薩】
「我は勢至菩薩なり。我は迷える人たちに神々しい光を放ちて、その迷いを断ち切るなり。迷いの多くは、己の執着や我欲によるものであるなり。我が放つ光にて、その執着と我欲を消し去るなり。されど、真に迷いを断ち切りたいと願う人だけに、我は光を放つなり。迷いは己の執着や我欲から生じることをしかと悟ることができる人だけを救うなり。多くの人は、執着や我欲が強い故、迷うなり。何が一番大切なのか、己を二の次とすれば多くの迷いは消えるなり。いつまでも己のことばかり考えていると、迷いに押しつぶされて自滅するなり。今、まさに自滅する人が増えているなり。このままでは、彷徨える御霊が増えるばかりなり。自らの命を絶てば、御霊は成仏することはできず、彷徨い続けるなり。我はそのような御霊を救うことはできぬなり。自らの命を絶たぬように光を放つだけなり。」

 

多くの菩薩は、人々を少しでも正しい道に導こうとしています。しかし、執着や我欲によってなかなか正しい道を歩もうとしません。そんな人たちを菩薩はとても憂いているのです。これから自死していく人が急激に増えていきます。自死すると長い間、霊は暗闇の中に閉じ込められてしまうのです。そして数百年もの間、自問自答を繰り返すのです。ある意味で独房のような所に入るのと同じ状態になるのです。そのことを多くの人は知らず、安易に自らの命を絶ってしまうのです。多くの菩薩は何とかそのようなことを防ごうとして、懸命に御働きになっています。何のために生まれてきたのかを、多くの人がよく考えてみる必要があります。そのことがわかれば、自らの命を絶つことはなくなるのです。

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