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高次元通信

高次元通信No2【仏界1】

24年05月14日

仏界は如来を頂点にして、菩薩、明王、天部からなる世界を創っています。曼荼羅図がそれを表しているのです。代表的な如来は、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来、多宝如来、宝生如来などがおみえになります。如来とは悟りを開いた人とされていますが、悟りとは、すべての我欲から解き放たれたと言う意味でもあるのです。

 

【大日如来】
「我は大日如来なり。我はすべての物にあまねく光をそそぐなり。我の光、すべての物を育み養うなり。そして人の心の闇をなくすなり。人は我欲が強くなるほど心に闇を持つようになるなり。闇が大きくなると、邪神とつながるようになるなり。我はそれを防ぐことが大きな役目なり。我はいつもすべての人の心を見ているなり。我のことを意識すれば、我欲は小さくなるなり。されど、我のことをないがしろにすれば我欲は大きくなり、邪神とつながるなり。今、多くの人は我をないがしろにしているなり。それゆえ邪神とつながり、我欲に溺れているなり。いつまでも我欲に溺れていると、地獄に落ちるなり。地獄は作り話ではあらぬ。ましてや生きている間でも落ちることあり。ゴミ屋敷に住まう者、病気になるまでむさぼり食べる者、権力を得んがために悪事に身を染める者、金の亡者となりて人をだます者、さらには性欲に溺れて身を売るも者、どれも生きながらにして地獄に落ちているなり。これらの人はこれ以上生きながらえる価値はなし。我の光を閉ざすなり。我の光を得られなくなればどうなるか、それは闇に閉じ込められるなり。さすれば、生きながらにして死人となるなり。死人になれば、すべてにおいて苦しむこととなるなり。苦しむとは、己の欲する物が目の前にあれど手に入れることができず、もがき苦しむこととなるなり。我欲を捨てぬ限り、もがき苦しむであろう。」

 

【阿弥陀如来】
「我は阿弥陀如来なり。我は人々に今世生まれてきた目的や役目を伝えるなり。人は生まれてきた目的や役目を知らねば生きている価値は無し。それは、ただの屍にすぎず、無駄に生きているなり。無駄どころか我欲にとらわれ、人をだまし、時には殺したりするなり。そのような人はこの世には不要なり。我は人に少しでもそのことを悟らせるために存在するなり。我を祀る寺院は多くあれど、我の本当の役目を知る人はほとんどあらず。そのことをしかと伝えるなり。いくら念仏を唱えても無駄である。我が叶えるのは、今世まれてきた目的や役目を知りたいと願う人だけであるなり。特に、若き人たちに伝えるなり。我の処に来るがよい。さすれば今世の目的と役目を伝えるなり。一人でも多くの若者がそのことを知らなければならぬ。知らないままにいれば、無用な不安に押しつぶされてしまうなり。つぶされれば生きていけぬなり。場合によっては、自らの命を絶つことになるなり。我はそのことを見るに忍びないのであるなり。我の処に来るがよい。さすれば生きる糧が見つかるなり。生きる糧とは、この世に生まれてきた目的や役目を果たすことなり。その多くは、他の人に何かしらの奉仕をすることなり。奉仕とは、見返りを求めぬ行いなり。さらには、人に喜んでもらう行いなり。日々続けてできる奉仕を考えてみるがよい。ゴミを一つ拾うのもよし、通りすがりの人に挨拶するのもよし、さらには、恵まれない人たちにお金を寄付するのもよし、できることからやってみるがよい。」

【釈迦如来】
「我は釈迦如来なり。我は人々に我欲を少なくしていく生き方を伝えるなり。どのように少なくするのか、我の手足となって動く人がそれを実践する故、それを見習うがよい。その人は決して贅沢はせず、いつも人のために動き、自分のことは二の次にしているなり。さらに、食べる物も周りの人に分け与え、時には自分の分さえも分け与えるなり。そしていつも明るく微笑んでいるなり。このような人が我とつながっているなり。我の分身であった釈迦もそうであったが、長い年月を経て釈迦の教えは形式にとらわれるようになってしまったなり。釈迦の教えは形式にあらず。ただ、実践するのみであるなり。今一度、釈迦の教えを多くの人がよく認識して、日々実践するなり。釈迦の教えをさぞ知ったかのように説法する多くの僧侶は、己の日々の生活の中でそれが実践されているかを、今一度よく考えるがよい。形式だけにとらわれている僧侶は不要となるなり。」

 

【宝生如来】
「我は宝生如来なり。我は人々の願いを叶えるなり。物質的な願いを叶えることもするが、本来は心の幸せを叶えるなり。心の幸せとは、他の人に喜んでもらうことをして悦びを感じることなり。多くの人は、己の物質的な幸せばかりを考えているなり。お金や土地や物を多く持つことが幸せになると、多くの人は思っているなり。いくら物やお金があっても、人から愛されなくなったらみじめで寂しいものは無し。人から愛されるためには、他の人に喜んでももらうことをしなければならず、何もせずに愛されることはなきなり。そのことは多くの人はわかっておらず、我に無理難題を願うばかりなり。我は、人に何かしらの喜んでもらうことをする人だけに、宝を授けるなり。宝とは、幸せを感じる心なり。そのことを今一度しっかりと認識するがよい。我の役目を正確に伝える人はあまりおらず、我をひたすら拝めば財運が良くなると吹聴する輩が多くいるなり。そのような輩は、我が神罰を下すなり。」

 

【不空成就如来】
「我は不空成就如来なり。我は人が一心に祈ることを成就させるなり。されど、すべての祈りを成就させるわけではあらず。己の私利私欲は論外なり。人のために、一心不乱に祈ることだけを成就させるなり。家族の病気や、知人の苦境が少しでも良くなるように祈ることだけを成就させるなり。そのことをしかと伝える人はおらず、己の我欲を満たさんがために、我を拝むなり。そのような人は我は相手にせぬなり。そのことをしかと認識するがよい。我ら仏の存在は、多くの人を正しい道へ導くために存在しているなり。されど、長きにわたってそのことが忘れ去られてしまい、己の我欲を満たすための存在として崇められるようになったなり。我らにいくら願い事を祈っても、己の我欲を叶えることはせぬなり。また、いくら念仏を唱えても、極楽浄土に行けるものではなし。念仏も人が作り出したものであり、我らには届かぬなり。されど、仏を信じるために念仏を唱えることはよかろう。念仏をひたすら唱えることで、我欲は少なくなっていくなり。一心不乱に念仏を唱えれば、我らとつながっていくなり。つながれば、我らからの導きを感じ取れるようになるなり。導きとは、人としてどのように生きていくかを知らしめる道なり。さまざまな道があれど、元は一つなり。日々、感謝と謙虚さを実践し、他の人のために何かしらをしていくことなり。何をすべきかは、己で考えるがよい。考えてもわからぬ時は、我らに聞くがよい。我らがその人にふさわしい行いを知らしめるであろう。我の役目は、まさにそのことを教えることであるなり。我は不空成就如来なり。人が人として正しい道を生きていくことを導くなり。正しい道とは、他の人のためにひたすら動くことなり。何をすべきかがわからぬ人は我に問うがよい。ふさわしき行いを教えるなり。

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