漢方コラム

お問い合わせ

神時代通信

神時代通信No47【普賢菩薩】

22年10月31日

普賢菩薩(フゲンボサツ)は、釈迦如来の脇侍として知られていて、善の行いを広めていく神なのです。しかし、本当は人が人としてどのように生きていけばよいのかを教え、導く神なのです。他にもこのようなことを導く神はいるのですが、この神はとても強い力を持っていて、人の心を大きく動かすのです。

 

人が人として生きて行くためには、感謝と謙虚さを持っていないといけません。しかし、自分のことを第一に考えていないと生きていけない時もあります。この相反する生き方をどのようにしていけばよいのかを導いてくれるのが、普賢菩薩なのです。食べ物がなくて飢えて死にそうな時に、残ったパンを人に与えてまで施しをしなければならないのか。船が沈没しそうになって救命いかだが定員オーバーで、幼い子どもが取り残されていた時、自分がいかだを降りて子どもに席をゆずるべきなのか。このような時、人はどうしたらよいのかを迷ってしまいます。その時々で異なるため、正解はないのですが、少しでも人のためにできることがないのかを最後まであきらめないで、考えて行動することが大切なのです。

 

人は生きていくために時には人を犠牲にしなければなりません。また、自分の命を犠牲にして他の人の命を助けることもあります。そのようなことを何度もくり返して魂は成長していくのです。しかし、自分のことばかりを優先にしているとだんだんと我欲が強くなり、自分だけを大切にしてしまうのです。時には人にゆずり、時には自分を優先する、そのバランスが大事なのです。逆に、いつも他の人ばかりを優先していると、いつまでたっても出世できなくなってしまいます。このバランスを上手くとるための目安を授けてくれるのが、普賢菩薩なのです。

 

その目安とは、自分のことと他の人をどこまで分けて考えるか。親子や兄弟であっても、財産の相続でもめることがよくあります。逆に血のつながっている方が激しくもめることがあります。なぜなら、親子や兄弟だからはっきり言ってもいいと思ってしまうのです。他人であれば少しは遠慮することもあるのですが、血縁者だと遠慮がなくなるのです。つまり、はっきり言うか、少し遠慮するかの違いなのです。遠慮するとは思いやることでもあるのです。思いやることができれば、骨肉の争いは起らないのです。特に兄弟による遺産相続のもつれはよく耳にします。兄弟と言えども、仲の良い兄弟ばかりではありません。仲が悪かったりすると、遺産相続が元でその関係が表に現れてくるのです。いずれにしても、少し人を思いやることが目安となるのです。

 

そしてもう一つ、自分のことを第一に考えた時に果たしてそれは絶対なのか、つまり、自分のことだけを考えていていいのか、少しは他の人のことも考える必要があるのではないかと思うことです。すべてではなく、少しだけ他の人のことも考える余裕が必要なのです。そうしていけば、ある程度のバランスは取れていくのです。いずれにしても、自分のことだけに偏り過ぎないことが大切なのです。しかし、人はどうしても自分のことを真っ先に考えます。そのことを戒めるために普賢菩薩の御役目があるのです。
「我は普賢菩薩なり。我は人々に善の心と悪の心の存在を伝えるなり。人は善と悪の心を持っているなり。いつもその狭間で揺れ動いているなり。それを体験するために生まれて来たなり。しかし、人は悪の心に傾きやすくあるなり。それをくい止めるのが我の役目なり。なぜ悪の心に傾くのか、それからいかに脱却するかを経験するために生まれて来たなり。つまり、甘い蜜に誘われても、己の心をいかに強く持てるかを試されているなり。それは、大元の神の采配なり。それをどこまで耐えていけるかが、人としての存在意義でもあるなり。人は時として獣になる時もあるなり。獣のままでいると、いずれは邪神に取りつかれて自滅するなり。そうならないように導くことが我の役目なり。」

 

今、多くの人が獣となり、邪神に取りつかれています。自分の我欲を前面に出して、ひたすらその我欲を満たそうとしてなりふり構わないことをしています。すでに邪神に取りつかれている人もいます。大元の神はそのような人を消滅させるように多くの神に指示しています。魂ごと無にするのです。本来魂は不滅と言われていますが、何度転生しても我欲が魂にこびりついていると、ますます我欲が多きくなるだけなので、もう存在する価値はないと見なされたのです。さらに、長きにわたってのさばってきた邪気や邪神を一掃するためには、人に取りついた段階でないと対応できないのです。邪気や妖怪は人のマイナス想念からできています。単独で存在している時は、雲のようにぷかぷかと浮かんでいるため捉えようがないのです。そのため、人に取りついた時に撃退することができるのです。ウイルスが感染すると、免疫の力が働いてウイルスを撃退しようとするのですが、効率よく撃退するために細胞に侵入した段階で細胞とも撃退するのです。ある意味で同じことなのです。邪神は邪悪な心を持ったまま死んでしまった人の魂が何百年、何千年とかけていくつも集まったできたものなのです。やはり、邪気と同じようにぷかぷかと浮かんでいるため、人に取りついた段階でないと抹消できないのです。

 

今、多くの神が邪気や邪神が取りついた人を消滅させています。心筋梗塞や脳梗塞、ガンや難病、そして事故や自然災害などさまざまな形で消滅させられているのです。さらに、コロナワクチンによっても。これからさらに多くの人が亡くなっていくでしょう。神が人を消滅させるなどとは考えられないでしょうが、新しい時代を創っていくには我欲にまみれた人たちは不要なのです。大元の神がそれを強く望んでいらっしゃる以上、仕方がないのです。すべては大元の神の采配によって決まるのです。消滅される人の選別は、年内で完了します。年が明けたら変えることはできません。それまでに我欲を小さくして、人のために何かをしていかなければなりません。ゴミを一つ拾うことでもよし、通りすがりの人に自分から挨拶をするのもよし、電車でお年寄りに席をゆずるのもよし、小学生の朝の登校時に「いってらっしゃい」と声をかけるのもよし、明日からでもできることを実践していくのです。そうすれば残されていくでしょう。

 

普賢菩薩は今、邪気や邪神に取りつかれそうな人を改心させるために奔走していらっしゃいます。時には荒療治もします。事故やケガ、大病などで。それでも改心しなければ脳梗塞などで半身不随にさせたり、認知症にさせてしまいます。そうなれば我欲から遠ざかる状態になるからです。神仏は時として鬼にもなるのです。ご利益を与えてくださる神仏は、基本的にはいません。人のために祈りを捧げる人には、その願いを叶えてくれることもありますが、自分のご利益をいくら願っても叶わないのです。叶えてくれるとしたら、それは邪神だと思ってください。人の我欲を駆り立てる存在なのです。

ページTOPへ戻る

電話する

お問い合わせ