玉祖神(タマノオヤノカミ)は天皇家に伝わる三種の神器の一つである、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を作られた神とされています。神器にはあと八咫鏡(ヤタノカガミ)と草薙剣(クサナギノツルギ)がありますが、鏡は伊勢神宮に、剣は熱田神宮に、そして勾玉は天皇家に泰安されていると言われています。
なぜ三種の神器が神の証なのか、それは天皇家が神の血を引き継いでいることを形に現わすために、作られた話なのです。すでにお伝えしていますが、神武天皇から大正天皇に至る人々は、朝鮮半島からやって来た王族の血を引いていて、日本古来の天皇(スメラミコト)と姻戚関係にあるのです。したがって、自分たちが日本古来の天皇であることを誇示するために三種の神器を作り出して、その権威を見せびらかしたのです。したがって、この神器を作ったのは人であり、神が作ったわけではないのです。特に勾玉はその製造法が特殊なものであり、原料となる翡翠も希少価値の高いものだったので、特別な物として扱われたのです。
翡翠によって勾玉が作られるようになったのは、およそ2万年前からで、縄文人がムーの人たちからその技法を教えてもらって作り始めたのです。勾玉はオタマジャクシのような形をしていますが、人の胎児の初期のような形にも似ています。さまざまなことが言われていますが、勾玉の形は人の魂を現わしているのです。人の本体は魂であり、魂がすべてであると縄文人は信じていたのです。しかし、魂は目に見えないので、勾玉にして胸に付けることで、自分の魂はとてもきれいであることを現したのです。一番輝いてきれいに見えることで翡翠を好んで身に付けるようになったのです。翡翠がよく採取できるのが新潟の糸魚川流域なのです。すでに2万年以上前からこの流域には、縄文人が住み着いて翡翠を採取していたのです。しかし、原石から光り輝く部位だけを取り出すのはかなりの技術が必要で、また原石を見つけ出すのもかなりの知識がないとできなかったのです。それをムー大陸からやって来た人たちが教えてくれたのです。
ムーの人たちはおよそ7万年前に、日本列島からムー大陸に移住したのです。当時は天皇(スメラミコト)を中心に高度な文明を持っていたのですが、富士山の度重なる噴火によって住める所が少なくなってきたため、天皇(スメラミコト)の子弟と共にムー大陸に移住したのです。一部の人は天皇(スメラミコト)を支え、守るために残ったのですが、大陸からの移住者に侵略されて長野や岐阜の山奥でひっそりと暮らすようになったのです。その後、さまざまな自然災害によって大陸からの移住者が絶滅したので、シリウスやプレアデスの宇宙人がアンドロメダから縄文人を連れてきたのです。縄文人は争うことをしないような遺伝子を組み込まれていたので平和に暮らしていたのですが、今から3000年ほど前からまた大陸から多くの移住者がやってきて縄文人を虐殺し、住んでいた土地を奪っていったのです。縄文人はおよそ5万年間平和に暮らしていましたが、その間に元々日本列島に住んでいた人たちがさまざまなことを縄文人に教えて、導いたのです。さらに、今から1万5千年前に、ムー大陸が沈む時に逃れてきた人たちも、縄文人にさまざまなことを教えたのです。それらの人たちの多くが神格化して、日本の多くの神となったのです。
「我は玉祖神なり。我は勾玉を作る神ではあらぬ。我は民の御霊を浄化する神なり。人の御霊は何度も生まれ変わる度に、我欲と言う垢をつけていくなり。垢によってその御霊は曇るようになり、神とつながることができなくなっていくなり。神とつながらなくなるとさらに我欲は強くなり、邪神とつながるようになるなり。邪神も元は人の御霊なり。我欲で真っ黒に曇ってしまったものが邪神なり。邪神は人に我欲を多く持たせることで、己の僕を作ろうとするなり。一度僕になりしは、元に戻ることはできぬなり。我は少しでも民の御霊が曇らぬようにさせることが役目なり。我は民に御霊が我欲で曇らぬように、戒めるなり。戒めるとは、何のために生まれてきたのかを悟らせるなり。人は我欲を満たすために生まれて来たにあらず、他の人の役に立つために生まれてきたなり。そのことをさまざまな形で伝えるなり。」
御霊とは魂のことであり、魂は元々神から生まれたのです。魂はさまざまなことを経験、体験してその体験したことを集約してまた神の元に戻るのです。神は意志はあってもその実体はありません。肌で感じることができないため、ご自分の分身を御創りになってさまざまなことを実体験させるのです。特に我欲をいかに制して、人のためにどこまで行動できるのかを体験させるのです。つまり、善の心と悪の心を持たせ、そのせめぎ合いをさせることで本当の愛を体感させようとしているのです。大元の神はただひたすら愛のエネルギーを送り続けています。しかし、いつも注がれているとそれが当たり前だと思うようになります。しかし、それは当たり前ではなく、とても尊いものであることを実感させるためにさまざまな試練を与えられることで、大元の神の愛を実感できるようになるのです。普段生活していると、空気があることが当たり前だと思います。しかし、一度水の中に潜れば空気がないことでもがき苦しみます。空気は当たり前にあるのではないのです。さまざまな神の力によって存在しているのです。
すべてが当たり前に存在しているのではありません。そのことを知ることで神の存在を認識していくのです。つまり、大元の神はご自分の存在を実感するために多くの魂を生み出してさまざまなことを体験させているのです。しかし、時にその分身である魂が暴走してしまうことがあります。それをしないようにさまざまな神も生み出しているのです。その神々にご利益ばかりを願うのは、本末転倒なのです。この数千年間人々はあまりにも我欲に走ってきました。これ以上の暴走は許されない状態になっているのです。大元の神はいよいよ大きな御決断を下されることになりました。我欲と邪神に取りつかれた人たちを抹消するのです。我欲はあくまでも善の心を認識するために与えられてものなのですが、我欲に取りつかれるようになってしまっては、まさしくミイラ取りがミイラになったのと同じなので、その存在は不要になるのです。不要な物は消滅させられるのです。今まさにそれが始まっているのです。
我欲に取りつかれている人はこれからどんどん自滅していきます。病気や事故、自然災害に巻き込まれたり、精神的におかしくなったり、さらには自らの命を絶つことにもなります。これから急速に多くなっていくことでしょう。この通信を書いていると、ニュースで国による旅行促進のための補助金が出されると報道されています。コロナが少し落ち着いてきたので、どんどん旅行をしなさいと国があおっているのです。それに飛びついて多くの人が旅行会社に殺到しています。まさしく我欲の餓鬼のようなもので、補助金の多くは国の借金でまかなわれているのです。いずれは孫子の代に付けとして回ってくるのです。そのことを考えることもなく、己の我欲を満たすために旅行をする人たちは、いずれは淘汰されていくことでしょう。