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新時代通信No207【魂の誕生27】

22年04月07日

この通信は「魂の誕生」をお伝えします。魂についていろいろとお伝えしてきましたが、少し難しくなってきたので、視点を変えてお伝えします。魂は昔からその存在をさまざまな形で伝えられてきました。目には見えない存在をどうして知ることができたのか、そしてその存在がどのように働くのかをどのようにして知ることができたのかを伝えます。

 

いつ頃から魂の存在が言われるようになったのか、資料としては残っていませんがおそらく縄文時代には魂の存在は認められていたと思われます。翡翠などで作られた勾玉はたんなる装飾品ではなく、魂の存在を現わしていたのです。なぜあのような形になったのか、おそらく人が亡くなると体から魂が遊離する時にあのような形をしていたのでしょう。縄文人の多くはそれを見ることができたのです。魂だけでなく神も見ることができていたのでしょう。なぜなら縄文人は我欲があまりなく、いつも人のことを考えて行動していたからです。私たちが学校で学んだ縄文人は、原始の時代の野蛮人のようだったと教わりました。しかし、それはまったくのでたらめで、かなりの知識と技術を持っていました。それは、東北の三内丸山遺跡からも証明されています。ただ、争うことをしなかったので、大陸から移り住んできた弥生人に住む場所をうばわれても抵抗することなく去っていったのです。そのため、何もできない原始人だと決めつけられてしまったのです。

 

縄文人は我欲が少ないがゆえに、心が純粋で神とつながることができたのです。つながることで神からさまざまなことを教わり、生きていく術を学んだのです。ただ、それは必要最低限であったため、原始的な生活をしていたのです。しかし、それで十分に幸せを感じる暮らしをしていたのです。そのため争うこともなく、平和に暮らすことができたのです。そのため魂には曇りがなく、いつも光り輝いていたため、亡くなって魂が体から遊離する時にしっかりと見ることができたのです。それを勾玉で現したのです。生きている時は勾玉を首からかけることで、魂の存在を示していたのです。翡翠の輝きが実際の魂の輝きと瓜二つだったからです。そして人の根元は魂だということも知っていたのです。魂は不滅であり、肉体は魂の一時的な宿り木にすぎないとも知っていたのです。そのため、勾玉こそが人の根元であると考えていたため、とても貴重なものとして扱われていたのです。

 

魂は鬼に伝と書きます。鬼とは古来中国では魂が抜けた人の体のことを言っていました。今から30年ほど前に流行した霊幻道士が退治するキョンシーがある意味で魂の抜けた鬼なのです。西洋ではゾンビと言われています。つまり、魂は獣を人として理性と知性を持つようにさせる存在なのです。伝えるとは、神からの人としての生き方を伝えるという意味なのです。魂が宿っていない肉体は獣と同じで、魂が宿ることで神とつながり神から人としてどう生きるべきかが伝えられてくるのです。しかし、昨今は魂が曇ってしまい、神から伝えられてくることが通じなくなっている人が増えてきています。残虐な犯罪や我が子を殺してしまう親など、さらには戦争を引き起こす国のトップはまさに獣なのです。人の皮を被った獣が横行しているのです。魂を持っていても、神とつながっていないためその役目を果たしていないのです。

 

魂はある意味で肉体と神をつなぐ存在でもあるのです。しかし、我欲が強くなると魂は曇ってしまい、神としっかりつながらなくなるのです。魂は何度も生まれ変わるのですが、そのたびに我欲が魂にこびりついて少しずつ曇ってくるのです。昔は1年に1度、その年の罪穢れを清めるためにその地域の神社や神を祀った山などに出向いて、ミソギをしたのです。そのことで魂にこびりついた我欲をそぎ落としたのです。しかし近年、新年の初詣はご利益を祈願するものなり、ますます我欲が魂にこびりつくようになってきているのです。魂を我欲の垢からきれいにするためには、神の洗礼を受けなければなりません。洗礼は一般的には水によって清めることとされていますが、昔は火によって行われたのです。燃え盛る火の中を走り抜けることで、魂にこびりついた我欲を焼却したのです。今でも茅の輪くぐりによるミソギがありますが、実は昔は火を燃やしてくぐったのです。そのことで洗礼を受けたのです。それほどまでにしないと魂の浄化はできないのです。水の洗礼では十分な浄化はできないのです。

 

しかし、多くの人はそのような儀式に参加することはありません。そのため、大元の神は火の神に命じて火の洗礼を起こさせるようにしたのです。それが地震であり火山の噴火なのです。さらに異常高温や干ばつもある意味での火の洗礼なのです。これからますます洗礼は強くなっていくでしょう。魂が人の体に宿っている間でないと洗礼はできないのです。なぜなら、体から遊離した魂はその状態を変えることができないのです。つまり、人の体に宿っている間だけ魂は変化するのです。魂は単独で存在している時は、基本的には変わらないのです。体に宿っていろいろなことを実体験することで変わっていくのです。本来は少しずつ成長していくために生まれ変わるのですが、残念ながら多くの魂は我欲を増大させるばかりでますます神から遠ざかっているのです。だからこそ大元の神は大いなる洗礼をご決断されたのです。このことはすでにおよそ60年前から始まっているのです。そしてこの2年間が総仕上げの段階に入ってきたのです。

 

火の洗礼によって魂をどれだけ浄化できるかが問われているのです。多くの人はそのことを知りません。たんなる自然災害としか考えていないのです。阪神淡路大震災、東日本大震災、そして御岳山の噴火や多くの地震はすべて火の神による洗礼なのです。そのことを真摯に受け止めることができるかどうかで、今後の在り方が変わってくるのです。いつまでも我欲にとらわれていると、火の洗礼によって焼却されることになります。逆に、我欲を少なくし、人のために懸命に生きていくことをすれば、火の洗礼からまのがれることができるでしょう。どちらを選ぶかは人それぞれですが、いずれにしても時間はあまりありません。一人でも多くの人が目覚めていただくことを願うばかりです。

 

魂にこびりついた我欲を取り払うことができる方法がもう一つあります。それは感謝です。何に対しても「ありがとう」を言うことでこびりついた我欲は少しずつはがれていきます。魂がきれいになるほど神とのつながりが強くなり、神から伝えられてくることがわかるようになるでしょう。それは直感であり、インスピレーションとして。そうすればより感謝したくなるようなことが起こってくるでしょう。魂の浄化とはまさに感謝なのです。どんな時でも、そしてどんなに辛くても苦しくても、感謝することが求められているのです。ある意味で試されているのです。そのことをしっかりと認識してください。神試しはこれからますますエスカレートしていきます。神様とつながっていることを信じ、そして感謝することを忘れなければ何も心配することはないのです。日々感謝することを実践するようにしてください。

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