この通信では日本の歴史をお伝えしています。戦国の世が終わり、徳川の時代になって世の中は落ち着いてきました。しかし表上の話で、裏では外様大名と幕府の熾烈な戦いがありました。幕府は何とか外様の力を弱めようと隠密や忍びを使ってあら捜しをさせました。一方外様は、隠密や忍びを見つけ出すことにやっきになりました。
このようなことをなぜ取り上げるのかというと、裏の攻防が徳川の時代に大きな影響を及ぼしたのです。一つは方言の発達です。それまではおおよそ全国共通の言葉が使われていました。しかし、徳川の時代になると方言をよりきわだたせるようにしました。外部からの侵入者であることを見極めるには、その地域の方言がちゃんと使えるかで見分けたのです。薩摩や大分、熊本、青森や秋田、さらには山口などは方言が強いのはそのためです。さらに、着る者や生活習慣も独自なものを作り出していきました。二つ目は、幕府の動きを探るために外様が江戸に密偵を送り込み、それを隠すためにさまざまな仕事ができました。たとえば紙くずを拾う専門の仕事や火事の後処理をする仕事、古着を回収したり売りさばく仕事、道場破りや縁日での物売りなど。これらが江戸の一つの文化として根付いていきました。三つ目は幕府内部にスパイを送り込むために、大奥を利用する工作も行われました。見習いとして娘を大奥に忍び込ませ、将軍の動きを監視したり、実力のある局の言動を見張っていました。この時に使われたのが忍びの術で、時には暗殺も行われました。その術は現在も使われていて、政治家が都合が悪くなると秘書や関係者を暗殺する時に使われています。四つ目は、参勤交代の時に少しでも経費を浮かすために、共する家来や下人をレンタルするのです。前もって関所や宿場町を通過する時だけレンタルして、後は最小限にしていたのです。そのため、それを専門に行う業者もできて、街道沿いは大いに潤いました。
徳川幕府の繁栄は五代将軍綱吉までで、その後は財政が厳しくなり商人から借金をするようになりました。それは年々膨れ上がるばかりで、商人の返済請求に対応するため幕府の直轄領を商人にある程度自由に使えるようにさせました。その中で特別に許されたのが酒の製造と販売です。米どころの直轄領で酒を造り、それを全国に販売したのです。それが灘の酒や伏見の酒なのです。酒文化はこうして日本に根付いていったのです。また、商人は幕府を利用して米の相場を自由に扱えるようにしたため、米による換金率が低く抑えられて農民はいつも苦しい思いをさせられました。そのため一揆がよく起こりました。悪代官の厳しい取り立てによるものではなく、商人によって米相場が低く抑えられていたためです。米相場をまた復活させようとする動きがありますが、これは商社が米の値段を操作して儲けようとしているのです。今のところは認められていませんが、政治家を丸め込んでいずれは実現させるでしょう。
徳川幕府がその実権を握っていたのは三代家光までで、それ以降はある藩が影で幕府を動かしていました。それは福島藩で当初は本多家が、次に堀田家、さらにその後は板倉家が藩主を務めましたが、どの家も家康の譜代でその忠義心は絶対的なものでした。
家康が実権を二代将軍秀忠にゆずってからは、この三家は家康と共に駿府に移り住んでいましたが、家康が亡くなるとそれぞれに諸般の大名となりました。しかし、秀忠直轄の部下と折が合わず、さらには幕府の軟弱な体制を危惧して家康から授かった莫大な金を使って秘密裏に忍びの集団を雇い入れ、全国に情報網を作ったのです。さらにこの忍びを使って外様だけでなく譜代大名や旗本も時には暗殺し、そして次期将軍の候補を邪魔するライバルも暗殺しました。すべては闇から闇に葬られていきました。そのため、福島藩は影の幕府とうわさされるようになり、江戸中期には多くの諸大名の名代が福島藩に挨拶を兼ねて訪れました。そのため、幕府も福島藩には頭が上がらなかったのです。
江戸時代の特徴は鎖国によって独自の文化を開花させていったことです。職人的な技術がそれぞれに極めていったのですが、特に古物や着物、さらには木工製品や象牙製品、べっ甲製品が優れています。それは今も受け継がれていますが、中でも武士が愛用した袴はその通気性と耐久性、そして肌触りのよさがとてもよく、それが今でも応用されて使われているのです。それが男性の下着のトランクスで、西洋から入ってきたと思われていますが、実は日本が本家なのです。ヨーロッパでは200年ぐらい前までは、男性はズボンの下にパンツははきませんでした。ワイシャツが下着代わりだったのです。そのため、日に何度もワイシャツを替えていました。明治の始めに海外を使節団として行った日本人の袴を見て、現在のトランクスを作り始めたのです。トランクスの語源は切り株ですが、袴はまさに逆さにすると切り株のように見えたからです。
江戸時代の文化でもう一つ特徴的なのが絵画です。葛飾北斎や伊藤若冲に歌川広重など数々の絵師がそれぞれの世界観を持って優れた作品を描きました。葛飾北斎の東海道五十三次は国際的にも高い評価を受けていますが、ヨーロッパの画家たちに強い影響を与えています。ゴッホやモネなどは浮世絵にかなり感化されました。近代芸術、特にヨーロッパにおいては日本の江戸時代の絵や他の芸術品が影響しているのです。このようなことをお伝えするのは、日本の文化がいかに優れていたかを再確認してもらうためです。明治以降、西洋文化がすべてにおいて優れているという風潮が今でもあるからです。戦後はアメリカに替わりましたが、そろそろ日本の文化のよさをしっかりと認識する時がきました。
徳川幕府は260年続いてきましたが、その間に世界の情勢は大きく変わり、ある意味で時代の流れに取り残された島国となってしまいました。しかしそのおかげで文化は花開き、大きな戦争もなく人々が穏やかに暮らすことができました。各藩が自給自足に取り組み、大方は各藩ですべてをまかなっていました。ある意味でこれからの日本のあるべき姿でもあるのです。これから、いやすでに始まっている資源の獲得競争や食糧の枯渇によって国同士の紛争や戦いがエスカレートしていくでしょう。いかにそれを避けるかは、自給自足が一番の解決策なのです。日本は資源が乏しいと言われますが、江戸時代はちゃんと自給自足をしていたのです。今の科学技術でなら十分にやっていけるでしょう。もちろん、ある程度の不自由さと節することは必要ですが。昭和30年代の生活スタイルであれば、十分に自給自足していけるでしょう。そのためにも不要な物や食べ物は買わないようにして物を大切にし、リサイクルして使う習慣を少しずつ身に付けていくことが必要です。食糧難に資源の高騰は目の前に迫っています。今の物にあふれた生活からそろそろ卒業する時がきたようです。もちろん飽食の生活も。江戸時代の生活を今一度見直し、少しずつ取り入れていくことをしましょう。今日からでも。