この通信では日本の歴史についてお伝えします。古墳時代はおよそ2000年前から始まりましたが、最初は権力者の墓として造られました。その後1600年前から外国からの侵略を防ぐ目的に変わったため、より巨大化していきました。当時はヤマト政権が台頭し、大阪を中心に西日本を統一していました。
ヤマト政権を実行していたのは中国から移住してきた人たちで、すでにある程度の国となっていたところに入って来て、武力で制圧したのです。当時は奈良県を中心に朝鮮からの移住者がある程度の国家を作っていました。いわゆる飛鳥です。現在の史実とは少し異なるのは、ヤマト政権がその成り立ちの正当性を裏付けるために朝鮮からの出身であることにするため、卑弥呼が弥生時代に日本を治めていたとしたのです。卑弥呼は個人名ではなく当時の権力者の呼び名で、現在で言うなら知事のようものでした。卑弥呼によってある程度のまとまりを持っていましたが、国と言うほどではありませんでした。村の集合体のようなものでした。そこに中国と朝鮮からの移住者が入ってきて、それぞれに支配していったのです。中国の移住者は大阪を中心に、朝鮮の移住者は奈良を中心に。最初はそれぞれの統治を黙認していたのですが次第に勢力がましてヤマトが飛鳥を攻めるようになり、飛鳥は出身の朝鮮の王国に助けを求めたのです。それに応じて朝鮮から船団がやってきて大阪に攻め入ってきたため、ヤマトは一時期衰退しましたが、今度は朝鮮のもう一つの王国と同盟を結んで盛り返し、飛鳥を制圧したのです。
ヤマトはその正当性を作るために古事記や日本書紀を作りました。ヤマト政権ができる前までは、各地の豪族が小規模な国を作っていたのですが、威厳を高めるために天皇制を作ったのです。その元は飛鳥ですでにできていたので、それを利用してヤマトは天皇の子孫であり日本を創った神の子孫であることをでっち上げたのです。飛鳥の天皇制は朝鮮から持ち込まれたもので、朝廷制度も朝鮮からのものをヤマトが取り入れたのです。この頃の天皇は朝鮮の王族の末裔で、日本古来から脈々と続いてきた天皇、スメラミコトとはまったく関係ありません。そのため、古事記や日本書紀でそのつながりをこじつけたのです。神武天皇が初代の天皇とされていますが、実在の人物ではなくすべては偽りです。そしてそれにまつわる神のつながりや国生みの神話も。飛鳥がそれまでの神話と朝鮮の神話を組み合わせ、ヤマトがさらに捏造したのでおかしな内容になっているのです。
この時代の経歴が難解なのは、このような史実を歪曲したためにわからなくなっているのです。いくら調べても真実は見えてこないのです。しかし、歴代天皇の墓とされている古墳をしっかり調べればすべての真実が明らかになるのです。そのことを宮内庁もわかっているのですが、真実が明かされると日本の天皇制が崩壊してしまうので厳重に触れさせないようにしているのです。日本の天皇制はヤマト、飛鳥によって捏造され、さらに明治の時代になってさらに捏造されて今に至っているのです。天皇、スメラミコトと神の関係については改めて別のナンバーで詳しくお伝えします。
ヤマト朝廷が設立され西日本を統治するようになると、さらにその勢力を東に向けました。当時、関東以北は弥生時代からの豪族が点在し、それぞれに小国をなしていました。それをヤマト朝廷は一つずつ攻略して支配下に置いていったのです。ヤマトタケルがその陣頭指揮を執ったとされていますが実在の人物ではなく、ヤマト朝廷の軍の総称で、タケルは軍を意味しているのです。タケルを武尊としたのはそのためです。武装集団と言う意味です。ヤマト朝廷が本州をほぼ制圧すると、仏教を取り入れて人心を掌握するようになりました。この時の責任者が聖徳太子で飛鳥時代に活躍されたとありますが、すでに当時はヤマト朝廷の配下にあり、聖徳太子も実在の人物ではなく後世にその威厳を残すために作られた架空の人物なのです。ヤマト朝廷は巧妙にそして緻密に民や豪族を支配していったのです。なぜこれほどまでに捏造や偽造をしてきたのか、ヤマト朝廷を実質的に動かしていたのは、秦の始皇帝が派遣したと言われる徐福の末裔が影でヤマト朝廷を動かしていたのです。いわゆる秦一族が。
秦一族は高度な知識と技術を持っていましたが、表に出ることはありませんでした。幾度とくり返される政権争いに巻き込まれるのを避けたのです。その代わりに、いつも新しい政権に食い込めるような方法を巧みに構築したのです。それは人の懐柔です。言葉巧みに新しい政権に食い込み影で操ったり、言うことを聞かなくなると新しい政権を作って乗り換えたりしてきたのです。それは今でも続いているのです。闇の権力者として今も日本を牛耳っているのです。このことについても改めて別のナンバーで詳しくお伝えします。ちなみに神武天皇が紀伊半島に上陸して、その道案内をしたとされる八咫烏(ヤタガラス)が秦一族なのです。八咫烏は三本足のカラス、三本足は秦氏の出身地が中国の山東省でることを表しています。山東は三沓(サントウ)、沓はクツのことです。三つのクツだから三本足で、カラスのように黒くていつも影の存在を現わしているのです。
ヤマト朝廷はその後、新たな勢力に飲み込まれていきました。衰退していた朝鮮からの移住者がまたその勢力を盛り返して、権力を奪還したのです。それが大化の改新です。それまでの中国移住者の末裔であった蘇我氏と入鹿氏の横暴さに腹をすねかねていた朝鮮移住者の末裔である中大兄皇子と中臣鎌子がクーデターを起こしたのです。そのことでヤマト朝廷に代わって平安時代が始まっていったのです。中臣鎌子はのちの藤原鎌足で、藤原政権の土台を作ったのです。この時も秦氏が影で糸を引いていたのです。つまり、蘇我氏や入鹿氏が言うことを聞かなくなってきたために、中大兄皇子と中臣鎌子をそそのかして政権を取らせたのです。そして自分たちは公家として天皇の取り巻きとなり、天皇を使って政権に介入していったのです。そのなごりが幕末まで続くのです。そして今、秦氏の末裔は京都の太秦(うずまさ)に拠点を置いていろいろと影で画策しているのです。しかし、その力もかなり落ちてきました、なぜなら秦氏もオリオンとアトランティスを起源に持つからです。
平安時代は優雅な時代でした。しかしそれは貴族や皇族の一部の人だけで、多くの民は搾取されてとても辛い生活を送っていました。ある意味での奴隷のようなものだったのです。平安時代の文化を賛美する人もいますが、それは奴隷制度の上に成り立った一部の特権階級の道楽による文化とも言えるでしょう。その根底にあるのは権力への野望と男女間の限りない性欲です。これを美化したのが紫式部の源氏物語で、日本を代表する文学とされていますが、その実態はすさまじい嫉妬と野望が満ちあふれているものなのです。それを巧みな言葉でカモフラージュして、メルヘンタッチに仕立ててあるのです。