仏の世界は、ある意味でピラミッドのような形になっていて、如来を頂点に菩薩、明王、天部から成り立っています。なぜこのような形になったのか、それは如来や菩薩の役目を支えたり、守るための神を多く必要としたからです。それだけ如来や菩薩の役目を邪魔する存在が多くいるのです。まさに邪気と魔物が邪魔をするのです。
【阿閦如来】(あしゅくにょらい)
「我は阿閦如来なり。我は人々に何事にも動じない強い心を授けるなり。人はさまざまな我欲に心を揺さぶられるなり。そして、時には我欲に溺れるようになるなり。ひとたび我欲に溺れれば、なかなか抜け出すことはできぬなり。いつまでも我欲に溺れていると、邪気や魔物が取りつき、地獄に落ちるなり。そうならぬよう、我は我欲に溺れぬ強い心を授けるなり。我の力を信じるがよい、そして我の元に来るがよい。さすれば、我の力を授けるなり。人はどうして我欲に溺れるのか、それは心の中に魔物がひそんでいるからなり。魔物は元は人の御霊なり。我欲に溺れたまま死んでいった人の御霊なり。この魔物は、いつも人の心に取りつこうとスキをうかがっているなり。我欲を少しでも強く持つと、取りついてその我欲をさらに強くさせるなり。一度取りつくとなかなかはなれぬゆえ、ますます我欲は強くなり、最後は魔物の餌食となり果てるなり。魔物は人の我欲から生じる邪悪な想念をエサにしているなり。それゆえ、我欲をかりたてるなり。人の我欲は際限がないため、持てば持つほど強くなるなり。この我欲の連鎖を断ち切るのが我の役目なり。我欲に溺れそうな人を、我は救うなり。」
【薬師如来】
「我は薬師如来なり。我は人の病を治すなり。されど、どのような人でも治すわけではあらず。病になったことで、それまでの生き方や考え方を改めようとする人だけを治すなり。さまざまな病あれど、その多くはそれまでの生き方や考え方を改めるようにさせるために生じるなり。そのことをしかと心得なければ、病は治らぬなり。多くの人が我の処に病を治してほしいと願いに来るなり。されど、先ほど伝えたことをしかと心得ている人はあまりおらぬなり。それゆえ、我はその願いを叶えることはせぬなり。多くの僧侶もそれを知らぬゆえ、ただひたすら願えばよいと言っているだけなり。そのような僧侶は不要なり。我の真の役目は、人に何のために生きるのかを悟らせることなり。その多くは、人のために誠を尽くすことなり。誠とは、見返りを求めぬ行いなり。人を助け、支え、そして人を喜ばせるような行いなり。己の我欲を満たすために生きているのではあらぬ。多くの人は、己の我欲を満たすことばかりを日々考えているなり。それゆえ、病になるなり。そのような生き方を改めさせるために病となるなり。そのことをしかと心得なければ、いくら薬を飲んでも、いくら我に願っても病は治らぬなり。」
【弥勒如来】
「我は弥勒如来なり。我は菩薩より如来になったなり。釈迦入滅後、56億7千万年後に再来して、多くの人を救うとされているが、これはまちがいであるなり。年数にあらず、人の数なり。この世の人の数が、56億7千万人超えた頃に再来すると言うことなり。その時が来たなり。我の役目を果たす時が来たなり。」
【無量寿如来】
「我は無量寿如来なり。我は人々に無限の光を授けるなり。我が放つ光は、悟りを開く光なり。悟りとは、すべての我欲から解き放たれることなり。人は生きていく上で、食べることや寝ること、少しでも良い暮らしをしたいと言う我欲が必要なり。されど、どこまで行ってもこの我欲は満たされることはなし。ほどほどのところで切りを付けることが悟ることなり。人によってその切の付け所は異なるなり。その尺度を知らしめることが我の役目なり。尺度となるのは、食べることであるなら「腹八分」なり。寝ることであるなら「一日の四分の一」なり、良い暮らしを望むのであれば「己が汗水流して働いた分だけの稼ぎで暮らす」ことであるなり。これらを分相応と言うなり。これ以上のことを望むと、人は我欲に溺れていくなり。今、多くの人が我欲に溺れているなり。病になるまでたらふく食べる人、寝られぬと言って薬で無理やり寝る人、紙切れに大金をつぎ込んで金を稼ぐ人、さらには、多くの物にあふれて暮らしている人、ほとんどの人が我欲に溺れているなり。このような人たちは、これ以上生きていく価値はなきなり。すでに淘汰が始まっているなり。少しでも悟りを開くことができるよう、我は無限の光を放つなり。我の光を受け取れる人だけが残されるなり。」
【多宝如来】
「我は多宝如来なり。我は人々に多くの宝を授けるなり。宝とは、幸せであり、喜びであるなり。宝石や金銀はたしかに宝ではあるが、人の心を惑わすなり。お金もしかり。人は目に見える宝に目がくらみ、時に人でなくなるなり。獣となるなり。そして、それを奪い合うために争い、時には人を殺すなり。そのような宝は、偽りなり。誠の宝は、目に見えぬものなり。わずかなことで幸せや喜びを感じ取れる心こそが、誠の宝なり。多くの人はそのことを知らぬなり。誠の宝を持てるようにさせることが我の役目なり。どのようにして誠の宝を持つようにさせるかはいろいろあれど、人は苦しい時や辛い時に他の人から助けられると、大きな幸せや喜びを感じるなり。それゆえ、我は多くの人に苦難を与えるなり。そしてその苦難を乗り越えられるように導くなり。われの導きに従う人には、助け人が現れるなり。されど、我の導きに従わぬ人は、助け人は現れぬであろう。従わぬ人の多くは、己の我欲を突き通す人なり。苦難に出合って、感謝と謙虚さを取り戻す人は助けられるなり。できぬ人は自滅するなり。そのことをしかと心得るがよい。」
如来の真の役目を知っている人は、あまりいません。なぜなら、長い歳月をかけて仏教が伝えられてきた過程で、ご利益的な要素が強くなってきたからです。多くの人に信仰してもらうためには、一番効果的だからです。さらに、懸命に経を唱えれば極楽浄土に行けるとか、生きながらにして悟りを開くことができると言われてきましたが、やはり、人集めであったのです。今、多くの仏がその役目を果たすために懸命に動き始めています。そして、それぞれの仏の手足となってくれる人を求めているのです。仏と人が一つになって、初めて仏の役目が果たされていくのです。
日本にはさまざまな宗派の仏教がありますが、その多くは形式にとらわれ、時には金儲けのために多くのお布施を要求するところもあります。さらに、法事や法要をいつまでも強要したりしています。そのため檀家離れが増えて来て、ますます寺院の経営状態は悪化しているのです。本来の寺院が果たす役目を見直す時がきたようです。寺院も残されるものと、淘汰されるものが明確になっていきます。ましてや、新興宗教はこれで一掃されていくことでしょう。