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神時代通信

神時代通信No71【帝釈天】

24年02月13日

「ふうてんの寅さん」で有名な帝釈天は、須弥山の頂上にある天界最高位の世界に君臨して、仏の教えを守る役目を果たしているとされています。しかし、帝釈天の本当の御役目は、仏界をまとめることなのです。神界に住む神々の分身が仏なのですが、仏が住む仏界を秩序ある状態にしているのです。

 

仏界はいくつもの段階があって、一番下が実は菩薩の世界なのです。その上が如来の世界で、さらにその上が明王の世界で、一番上が天部なのです。一般的には、一番上が如来で、菩薩、明王、天部となっています。なぜ、実際と異なるのか。仏教では、神は仏を守る存在と考えていて、ある意味で仏に使える役目を果たしていると考えられているのです。確かに、神は仏を見守る存在ではあるのですが、それは分身である仏がちゃんと役目を果たせるように見守っているのです。親が子どもを見守るのと同じなのです。したがって、神は仏の上の立場にあるのです。

 

帝釈天は、仏がちゃんとその役目を果たしているかをいつも確認し、うまくいっていない時は手助けをするのです。同じような役目を果たしているのが梵天で、この二つの神が仏界を守っているのです。したがって、この二つの神は、人々にご利益を与えるようなことはしないのです。つまり、人と直接関わることはしないのです。しかし、仏が苦戦している時は手を差しのべるため、その時は一時的に人に関わることもあるのです。帝釈天は特に、如来の役目を、梵天は菩薩の役目を見守っているのです。帝釈天や梵天は表に出ることはありません。主役は如来や菩薩なのです。あくまで黒子として縁の下を支えているのです。そのため、仏教では如来や菩薩よりも下の存在と思われるようになったのです。

 

仏の世界はさまざまな如来や菩薩がいて、独自の世界観を創り出しています。その世界観を表しているのが曼荼羅図なのです。曼荼羅図には大日如来の意志と思いを表した金剛界曼荼羅と、大日如来の慈悲を表した胎蔵界曼荼羅があります。どちらも、大日如来を中心に多くの仏が描かれています。仏教の経典はとても多くあるため、一般の人がそれを読んで理解するのはとても難しいので、曼荼羅図を見ることでその経典の内容を理解してもらおうとしたのです。そのため、この曼荼羅図は経典と同じぐらいの価値があるのです。曼荼羅図に描かれている仏は、それぞれの役目を持っていて、大日如来の意志をより具現化しているのです。しかし、この曼荼羅図はある意味で、本当の仏の世界を表しているのではありません。

 

浄土宗では、阿弥陀如来を中心に置いています。阿弥陀を唱えれば、だれでも極楽浄土に行けると説いています。いろいろな考え方があるのですが、どれも本当であり、真実ではないのです。曼荼羅図はある意味で宇宙の世界観を表しています。一つ一つの仏が、銀河を表しているのです。そして、その中心こそが「究極の存在」なのです。宇宙の在り方を、仏を使って表しているのが曼荼羅図なのです。したがって、本来は渦巻き状で表すべきなのですが、それでは一般の人は理解できないので仏の姿にしたのです。

「我は帝釈天なり。我は仏の役目を支え見守るなり。それゆえ、人に直接関わることはせぬなり。我の元に来て、いくら願い事を叶えても無駄であるなり。我は仏の教えをより多くの人に広めるために、さまざまな仏を支えるなり。特に如来を。如来は悟りを開いた存在だと言われているなれど、本来は悟りをどのように開くかを教えて導いていく役目を持った者なり。悟りとは、人を愛することなり。愛するとは、人を思いやり人のために何かしらをすることなり。己のことは二の次にして、人のために何かしらのことをすることが本当の愛なり。悟りを開くために、厳しい修行をするする者もあれど、もうそのようなことをすることは不要なり。ただ、他の人のために何かしらのことをすればよいのであるなり。ひたすら瞑想することも、経を読むことも不要であるなり。実践するのみであるなり。」

 

悟りを開くために、厳しい修行や瞑想をしたりします。さらにはお経を何度も読んだりしますが、もうそのようなことをする時代ではなくなってきたのです。明日からでも人のために何かしらのことをしていくことが、悟りを開いていくことになるのです。悟りを開くことは、我欲をなくすことだと言われていますが、人は生きている以上すべての我欲をなくすことはできないのです。したがって厳しい修行をしても我欲をなくすことはできないのです。また、瞑想やお経をいくら唱えても、やはり無理なのです。ではなぜそのようなことをすると悟りが開けると信じられてきたのか、悟りを開くことはとても大変なことだと信じられてきたためなのです。だれでも簡単に悟りを開くことができたら、僧侶にならなくてもいいわけで、そうしたら寺や寺院は成り立たなくなってしまうのです。

 

これからの仏教の在り方は変わっていくでしょう。すでにお伝えしていますが、檀家制度は崩壊し、多くの寺は廃墟となっていくでしょう。しかし、中には仏の教えをさまざまな形で広めていく僧侶もどんどん増えていきます。昔の寺子屋的な存在になったり、経済的に苦しんでいる人たちに食事を提供したり、悩みの相談に対応する寺も増えていくでしょう。寺本来の姿に戻っていくのです。檀家からお金の寄付ばかりを請求する寺はつぶれていくでしょう。

 

日本には現在8万近い寺院があります。神社も同じくらいの数があるのですが、後10年もすればどちらも半分ぐらいとなるでしょう。それぞれに祀られている神仏は、個人の家に引き取られて行くことになります。したがって、神社仏閣の多くは廃墟となっていくのです。しかし、神仏を信仰する人は増えていくでしょう。神社仏閣に行かなくても、身近な存在として感じるようになっていくのです。ご利益を吹聴している神社仏閣に対して、違和感を感じるようになっていくのです。さらに、死後の世界観も変わってくるため、仏式による法事や法要も少なくなっていくでしょう。

 

宗派にもよりますが、仏教では死後、閻魔大王の元で生前の行いの裁きを受け、地獄へ行くか浄土に行くかが決められると言われています。さらに、悪い行いばかりしていた人は、来世は犬や猫に生まれ変わるとも言われています。これらのことは、ほとんどが作り話なのです。人の魂は他の生き物に生まれ変わることはありません。人は人にしか生まれ変わらないのです。そして、あの世に地獄はないのです。地獄は我々の世界にあるのです。我欲を満たすために人をだましたり、殺したり。さらには、金の亡者になったり、ゴミ屋敷に住んでいるような人が地獄を味わっているのです。しかし、当の本人は地獄だとは思っていないのです。まさに、自分で気づいていないことが、本当の地獄なのです。

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