「三人寄れば文殊の知恵」と昔から言われています。三人寄ればさまざまなアイデアが出てくるということですが、もう一つは、考え方が偏らないようにと言う意味も含まれています。知恵とは単なる知識ではなく、生きていくための道理であり指針でもあるのです。人としてどのようにして生きていけばよいのかを教えてくれる仏なのです。
知恵はさまざまな体験によって身に付いていきます。もちろん本や年配者からも得ることはできます。今はスマホやパソコンからさまざまな情報を得ることができるため、ある意味で情報過多になってしまい、自分の考えをちゃんと持つことができなくなっています。知恵とは、さまざまな情報を取り入れてその中から本当に必要なものを選び出し、そして自分なりの考えに作り替えたものなのです。そのためには、よく考える時間を必要とするのです。自分で考え抜くことによって本当の知恵が身に付いていくのです。逆の言い方をすれば、よく考えないで人の話を鵜呑みにすると、痛い思いをすることになってしまうのです。
文殊菩薩は単に知恵を授ける仏ではなく、自分なりの考えを持たせる仏でもあるのです。「三人寄れば文殊の知恵」は、互いに意見を出し合い、よく考えることを表しているのです。一人では思いつかないことも、三人集まって話し合えばよいアイデアが浮かぶかもしれないと言うことなのです。さらに、話すことで自分の考えがまとまり、異なる考えを知ることができてより深く考えることができていくのです。今の若者は、友達と深く話し合うことはありません。メールやラインでストレートに思ったことを伝え合うだけになっています。そのため、相手のことを深く考えないで伝えてしまうのです。そのことで、時には人を傷つけたりするのです。さらに、人のことを非難したり中傷したりするのです。顔が見えなければ、何を言ってもいいと考えてしまうのです。
人は自分の考えを伝えるために、いろいろなことを考えます。いかにわかりやすく、そして相手に理解してもらうように考えるのです。そのことをくり返すことで、知恵が身に付いていくのです。知識がいくらあっても、知恵がなければその知識を有効に使うことはできません。まさに頭でっかちになってしまうのです。今、多くの人がまさに頭でっかちになっているのです。そのため、知識ばかりを自慢するような風潮になっているのです。その典型が受験なのです。多くの知識を持っている人が優秀だと言うシステムになっているため、多くの子どもたちはひたすら知識を詰め込む勉強をしているのです。深く考える力や、自分の思いをいかにわかりやすく伝える力が充分に養われていないのです。そろそろ、知恵を育む教育がなされるようにしなければならないのです。それを推し進めていくのが文殊菩薩なのです。
文殊菩薩がどのようにして働きかけていくのか、つまり、文殊菩薩の手足となって動いていく人はどのような人なのか。それは、やはり教育の現場で働いている教師なのです。これから、現場の教師の意識が大きく変わっていくことになります。今までの詰め込み教育に矛盾を感じている教師が、自ら考えていく力を育む教育をしていくようになるのです。
「我は文殊菩薩なり。我は多くの民に知恵を授けるなり。知恵とは、己で考え、そして工夫してより良き暮らしをしていくための術であるなり。知恵は己の努力によって身に付くなり。我は、その努力を育むことを導くなり。決して答えを示すものではあらず。答えは、自ら考えて導き出すなり。我から答えを導きだそうとして、ひたすら祈っても無駄であるなり。ましてや、ご利益を与えることなきなり。我の元に来る民は、いろいろ考えても答えが見いだせずに苦しんでいる者なり。苦しんでもがくことに、大きな意味があるなり。もがき苦しんだ度合が多き程知恵のありがたさを知るであろう。我は文殊菩薩なり。真の知恵を授けるなり。」
子供の頃から、いろいろと考える力を身に付かせるためには、答えは一つだけではないことをしっかりと認識させることが必要です。どうしても画一的な回答を求めてしまう傾向が強いため、自由な発想ができなくなってしまうのです。1+1は2であることはまちがいありません。しかし、10にするには何通りもの方法があります。1+9、2+8、3+7、4+6、5+5,さらに小数点以下の数を組み合わせたら無限となるのです。どれだけの方法を考えることができるかが大切なのです。そのような教育をこれから重視しなければならないのです。そのための第一歩が、自由な発想ができる環境を作る必要があります。たとえば、一つのテーマについていろいろな考えを発表させたり、回答がない問題を考えさせたりするのです。どれも正解であり、どれもまちがっているような。そのような授業を増やしていくことで、子どもたちは考える力を身に付けていくのです。
すでにそのような授業を取り入れている学校もありますが、まだまだ少なく、時間的にもわずかなのです。どうしても定められたカリキュラムをこなそうとしてしまうので、そのような授業をしている余裕がないのです。時間的な余裕をつくるために、いかに定められたカリキュラムを削減していくかを実施しなければならないのです。文科省や教育委員会からのお達し通りに行うのではなく、ある程度の裁量が個々の教師に与えられるようにしなければなりません。そうすることで教師も勉強して成長していくのです。その手始めとなるのが、能登半島地震で被災した子どもたちの授業なのです。自宅が被災し、学校は避難所として使われているため、通常の授業ができない状況でどのように子どもたちに学ばせるかが大きな課題となっています。別の学校を間借りしたり、集団で一時的に疎開したりしていますが、精神的にも肉体的にも疲労困憊している子どもたちに通常の授業を受けさせることはなかなかできません。
このような時こそ、これからどのように生きていくのか、生きていくためには何をすればいいのか、子どもでもできることなどを考えさせるのです。そしてみんなで思ったことを発表させて、どんどん書いていくのです。何度もくり返すことで、実際にできることが見つかり、希望が湧いてくるのです。自分で考えて実践させるのです。十人十色でみなちがっていていいのです。これこそが本当の知恵を養う授業となっていくのです。これから、日本各地でさらなる自然災害が多発していくことでしょう。この時にこのような授業をしていくことが、これからの日本の教育を根底から変えていく原動力となっていくのです。そして、それを文殊菩薩が導いていくことになるのです。
これから文殊菩薩とつながって手足となって動いていく教師が増えていくでしょう。教師だけでなく、多くの教育に関わる人たちも。そのことで日本の教育は、自分で考えていく力を育む教育に変わっていくのです。一人一人の個性を尊重する教育が行われて行くようになるのです。