仏教を広めた釈迦は没後、仏界でさまざまな修行をされて如来になったとされています。しかし本来、人が如来になるには気の遠くなるような歳月を必要とします。釈迦が如来として扱われることで、仏教をより広めるためにしたのです。したがって、釈迦の魂が如来になったのではなく、釈迦如来の分身として釈迦が生まれてきたのです。
仏教では大きく分けて、天部、明王、菩薩、如来と4つの身分があります。天部には七福神などで有名な弁財天や毘沙門天、大黒天などがいます。明王には不動明王や愛染明王が、菩薩には地蔵菩薩や弥勒菩薩がいます。そして如来には大日如来や薬師如来がいます。それぞれの御役目があり、人々を正しい道に導いているのです。しかし、多くの寺院ではそれぞれの仏様の御役目を正確に伝えていない所が多いのです。神社と同じように、ご利益を懸命にアピールしている所もありますが、神と同じように仏もご利益を与えるために存在しているわけではないのです。
釈迦如来の本当の御役目は、人々が我欲をどのように小さくするのかを悟らせることにあるのです。悟りを開くとは、我欲をなくすことだと言われていますが、人が生きていくためには最低限の我欲は必要です。食べること、寝ること、そして子孫を残すことなど、まったくもって我欲なしでは生きていけないのです。我欲をいかに少なくするかを、実践していくことが仏の教えでもあるのです。しかし、多くの人は自分の我欲をどんどん強くしていきます。そのことで文明が発達し、人口は増えていったのです。我欲が小さければ、いつまでたって原始的な暮らしを続けていくことになります。ある意味で一時期は我欲を強く持つことも必要だったのです。しかし、世界人口は80億人を越え、生活はハイテクによってとても便利になってきました。これ以上の人口増加や自然破壊は、地球を滅ぼすことになってしまう状態となったのです。そのため、一度リセットする段階となったのです。
そのため、もう一度原点に戻って、我欲を少なくする生き方をすることとなったのです。その生き方を釈迦如来が導いていくのです。便利な生活に慣れ、飽食に溺れている人たちが質素な生活に切り替わることはなかなかむつかしいものです。しかし、時間はありません。そのためにある種のショック療法が始まったのです。地震や火山噴火、異常高温や洪水、そして食糧やエネルギー危機などで、今までの生活を一変させているのです。さらにコロナやインフルエンザも。これからさらにエスカレートしていくでしょう。いつまでも今までと同じ生き方をしようとしていると、自滅していくのです。そうならないようにするために、釈迦如来が動き出すのです。
この通信では、神仏に敬語である様をつけません。なぜなら、この通信は多くの神仏からのメッセージでもあるからです。今、神仏はこれからの時代を創るために、大きく動き始めています。それぞれの神仏の御役目を代行する人とつながることで、実践し始めているのです。神仏とつながる人を「神人類」と言います。そのような人がこれからの時代を創っていくのです。
「我は釈迦如来なり。我は人々に我欲を少なくしていく生き方を伝えるなり。どのように少なくするのか、我の手足となって動くものがそれを実践する故、それを見習うがよい。その者は、決して贅沢はせず、いつも人のために動き、自分のことは二の次にしているなり。さらに、食べる物も周りの者に分け与え、時には自分の分さえ分け与えるなり。そしていつも明るく微笑んでいるなり。このような者が我とつながっているなり。我の分身であった釈迦もそうであったが、長い年月を経て釈迦の教えは形式にとらわれるようになったしまったなり。釈迦の教えは形式にあらず。ただ、実践するのみであるなり。今一度、釈迦の教えを多くの者がよく認識して、日々実践するなり。釈迦の教えをさぞ知ったかのように説法する多くの僧侶は、己の日々の生活の中でそれが実践されているかを、今一度よく考えるがよい。形式だけにととらわれている者は不要となるなり。」
釈迦の教えは、我欲を取り払うことで悟りを開くとされていますが、悟りを開いた後、何をするのかがちゃんと伝えられていません。悟りを開くことばかりにとらわれてしまい、本来の道から外れてしまっているのです。瞑想や座禅に没頭するあまり、本来なすべきことがなされていないのです。悟りを開くためには、日々人のために何かしらのことをすることが必要なのです。いつも人のことを思うことで、自分の我欲は小さくなっていくのです。我欲をなくそうと厳しい修行や座禅をいくらしても、なかなか小さくなることはないのです。日々、人のために何かしらを実践し続けることが悟りを開く最大の方法でもあるのです。家族や周りの人のために、わずかなことでもしてみてください。
人は、人のために何かをしてあげると、どうしても見返りを求めてしまうものです。礼を一言言ってほしいとか、何かしらの物を礼としてもらいたいとか、さらにはほめてもらいたいとか。それがないと、返って恨んだり、憎んでしまうのです。人のためにしたことに対しては、決して見返りを求めてはいけないのです。しかし、してもらったことの恩は忘れないようにしなければなりません。それが釈迦の教えでもあるのです。
今、能登半島地震で家が倒壊した人たちの元に、全国からボランティアの人たちが集まってきています。だれも見返りなどを求めてはいません。少しでも役に立てるのならと、自費で駆けつけているのです。このことがまさに釈迦の教えでもあるのです。もちろん、だれでもボランティアに行けるわけではないので、それぞれの人が何ができるのかを考えて実践していくのです。義援金を寄付したり、災害地へふるさと納税を治めるとか、さらには被災地の特産品を購入したりするのです。できることを考えて実践していくのです。
多くの仏は、神の化身でもあるのです。神は光の存在であるため、その実体がないので人はなかなか信じようとはしません。目に見えない存在を信じることはとても難しいのです。そこで、神が次元を落して仏となったのです。人の形に似せた存在となることで、人は神仏をより信じるようになったのです。多くの仏像は、まさに心眼で見た仏の姿を現わしているのです。しかし、仏も本来は光の存在なので、その実体はないのです。ただ、光もさまざまな輝き方があり、それぞれの仏によって光方が異なるのです。その仏の実体を絵図に書く人が私の友人にいるのです。この人は、私の前世の弟子でもあったのです。私の前世は800年前、高野山の高僧で秘薬を作ったり邪気払いをしていました。その人の前世はその時、曼荼羅図を懸命に書いていたのです。目に見えない世界を心眼で書くことを修得したのです。その技が今世にも引き継がれて、40歳を過ぎてからある日突然書けるようになったのです。