摩利支天はもともと古代インドの神として崇められていたのですが、仏教の普及に伴って如来や菩薩を守る神として信仰されるようになりました。摩利支天は陽炎を意味し、太陽や月の光の存在とされていたのです。それが、護身や勝利などご利益があるとされて、戦国の武将に信仰されていた時代もありました。
摩利支天は天津神である国之常立の大神の化身で、我欲にまみれた人を成敗することを役目としています。そのため、そのためそのお姿は勇ましく、弓矢を持って数頭の猪に乗っています。成敗するためにはせ参じることができるように。我欲にまみれた人の中でも、特に人をだましたり、陥れたりするような人に対しては稲妻のような成敗を下されます。人としての道を踏み外した者には、この神は容赦ありません。元々、国之常立の大神は人間が我欲にとらわれることなく、平和な暮らしができることを導く神でもあったのです。しかし、人類は何度も我欲にまみれて戦争をくり返し、時には核を使うこともあったのでこの神は人類を何度も淘汰して原始の時代から再出発させてきたのです。しかし、せっかく育ててきた人類を何度も淘汰されてはこまると言う神が多くなり、国之常立の大神はその御力を封印されてしまったのです。そして日本の東北に閉じ込められてしまったのです。節分の鬼はこの神のことであり、鬼門とされる東北はこの神が閉じ込められた方角を表しているのです。
しかし、東日本大震災によってこの神の封印は解かれたのです。変わり果てた人類の堕落した状態を見て、この神は再度我欲にまみれた人たちを成敗し始めているのです。その先頭に立っているのが摩利支天なのです。さらに多くの龍神も加わっています。国之常立の大神は龍神でもあるのです。金龍がこの神の化身であり、他の龍神を取りまとめているのです。青龍は地震や火山の噴火を引き起こし、赤龍は台風や大雨による洪水を引き起こします。黒龍は紛争を起こさせて自滅させていきます。世界中でこれらの龍神が奮闘しているのです。摩利支天は個々の人間レベルに対しての成敗を行います。すでに多くの我欲にまみれた人たちを成敗してきました。自殺や難病、事故に自己破産、さらには精神疾患などさまざまな形で。これからさらに多くなっていくでしょう。摩利支天だけではありません。大日如来や多くの神仏が我欲にまみれた人たちを成敗していくのです。神仏は願い事を聞いてくれる存在ではありません。時には聞いてくれることもありますが、人が正しい道を歩むように導く存在なのです。その導きから大きく外れた時は、容赦なく成敗するのです。
摩利支天は今、特に日本人を集中して改心させるために動いています。そして改心できないと判断した時は厳しい処置を下されるのです。これからますます激化していくでしょう。いつまでも我欲に溺れているか、改心して人のために何かしらをしていくか、選ぶのはその人の自由ですが、我欲にいつまでもとらわれていると、摩利支天の苛烈な裁きが下されるでしょう。時間はありません。なぜなら、大元の神の御意志が強く働いているからです。自然災害やコロナの感染拡大、さらには食糧不足やエネルギー不足が急速に広まっているからです。今のうちに改心しないと、この難局を乗り越えることはできないのです。
「我は摩利支天なり。国之常立の大神の命を受けて、我欲に溺れている者たちを改心させるために、厳しい処断を下すなり。それでも改心しないのであるなら、命は無きものとなるなり。我は国之常立の大神より授かった力をあまねく使うなり。容赦はせぬゆえ、しかと肝に銘じるがよい。我は弓の名手なり。そして猪突猛進して射貫くなり。電光石火のごとく動くなり。狙いを定めたら逃すことはなし。早く改心するがよい、我欲を捨てるがよい。さもなくば、我の矢を受けることとなろう。」
摩利支天は仏を守るだけでなく、我欲に満ちた人を成敗もするのです。今まさにその御役目を果たしつつあるのです。今のようなお金や物にとらわれた生き方をしていると、摩利支天の矢で射貫かれることになります。この矢に射貫かれると改心するまで苦しい状態が続き、いつまでも変わらなければ命はなくなるのです。そのことをほとんどの人は知りません。ましてや仏に仕えている多くの僧侶も知りません。今回初めて明かされたのです。多くの人は、仏は人々を救い、願い事を叶えてくれる存在だと思っています。それはまちがっていて、「仏の顔も三度」と言われるように、いつまでも我欲にとらわれていると、それを目覚めさせるために仕置きをするのです。人は痛い思いをしないと変わらないからです。それは病気だったり、ケガだったり、経済的な困窮だったりするのです。そして、それらを体験することで目覚めていくのです。逆に目覚めなければ、命を落とすことにもなるのです。
仏界も今、大きく変わろうとしています。宗教によって仏の教えはさまざまな解釈がなされています。しかし、中には仏の教えと言いながら高額な寄付を請求したり、檀家に無理なお布施を請求する僧侶もいます。立派な寺院を建てることを仏は望んでいません。日々、感謝することが仏の教えなのです。難しい経典や法典は、後世の人が勝手に作り上げたもので、仏が本当に伝えたことではないのです。難しくすることでその権威を高めようとしたのです。すでに何度もお伝えしてきましたが、宗教は人が作ったものであり、多くの人を支配するための道具として作られたのです。そのため難しくすることでその権威を高め、多くの人が崇めるようにしたのです。日本にはさまざまな宗派の仏教がありますが、仏の教えは感謝を日々実践することだけなのです。その原点に戻る時が来たようです。
摩利支天のように、我欲にとらわれている人を目覚めさせる神は他にもあります。毘沙門天や不動明王、さらには軍茶利明王などがおみえになります。それぞれに烈火のごとく動かれます。詳しいことはまた改めてお伝えしますが、これらの神が総動員して我欲にとらわれた人々を目覚めさせようとしているのです。これからますますその御力が現れてくるでしょう。病気やケガに事故、そして経済的に困窮した時は、これらの神々が何かを気付かせようとしていると思ってください。じっくりと考えて、今までの考え方や行ないに問題はなかったかを、しっかりと考えて改善するようにして下さい。さらに、日々の感謝をしっかりしていたか、人に対する思いやりは十分なされていたか、自然を壊すような行いをしていなかったかも。
仏の名を借りて、高額な寄付やお布施を要求してくる宗教や人は信じてはいけません。最近話題になっている教団や新興宗教は、多額の寄付を請求してきます。そのお金の多くは、その団体のトップの人たちの私的な財産となっていくのです。多く寄付したからと言って、天国に行けるとは限らないのです。「地獄の沙汰も金次第」とはならないのです。