この通信は「日本の神々」についてお伝えします。このシリーズでは、現津神を中心にお伝えしてきましたが神様もいろいろあって、仏様もある意味で神様なのです。どこが異なるのか、そのことをお伝えしていきます。仏様にさまざまな神様がおみえになるので、大まかに分けてお伝えします。
仏様は大きく分けて、如来、菩薩、明王、天部、そしてその他に分けられます。如来様は悟りを開いた人が死後、仏界に上って人々を救い上げるとされています。菩薩様は悟りを開くための修行中の人が亡くなった御霊が仏界でさらに修行されているとされています。明王様は如来様が人々を救うためにそのお姿を変えて、邪気や邪心を退治してくれるそうです。天部は古代インドの神々がモチーフになっています。一般的にはこのように解釈されていますが、実は仏様の多くは天津神の化身なのです。地球やさまざまな生き物をお創りになった天津神様は、光の存在なので人の目には見えません。ましてやそのお言葉を聞くこともできません。人々は神の存在を信じたくても、目に見えないためにどうしても信じることが揺らいでしまうのです。そこで、人の目で見ることができるように神様がその次元を落として変身したのが仏様なのです。扇風機の羽根は高速で回転していると見ることはできませんが、低速になると見ることができます。つまり、神様が次元を落として私たちにそのお姿をお見せになっているのです。
神様もいろいろおみえになるので、仏様もさまざまになるのです。次元を落とすということは、私たちに近い存在になっていただける半面、神様の本来の御力も弱くなるのです。つまり、本来の御力が十分に発揮できないのです。そこでさまざまな仏様をお創りになって、それぞれの御力を特化させたのです。如来様は悟りを開いた人の御霊が元になっていると言われていますが、実は天津神の上位の神様の化身なのです。そして菩薩様はその下の次元の神様の化身であり、明王様や天部の神様はさらに下の次元の神様の化身になるのです。化身になるとその御力は制限されてしまうため、その特化された御力を十分に発揮するためにそれぞれ個性豊かな形になられるのです。仏様の仏像は多彩であり、とても個性的なのはそのためなのです。特に明王様は不動明王や軍荼利明王など、とても際立ったお姿をしているのです。個々のお役目はそれぞれにお調べください。古事記と異なって、仏界の神様のそれぞれのお役目はすでに公になっていることで正しいのです。
仏様の仏像を作る仏師は、心の目を開くことで仏様を見ることができるのです。もちろん仏師のだれもできるわけではありませんが、古来有名な仏師は心眼を開くことができたのです。どのようにして心眼を開いたのか、それは一心不乱に木と向き合って彫るのです。何度もそして何日も彫り進めていくと、心眼が開くようになり、少しずつ仏様、すなわち神様の御姿が見えてくるようになるのです。なぜなのか、神様もその御姿を人々にお見せすることで、その存在を見てもらいたいからです。そのために次元を落としてきたのですから。次元を落とすことは神様にとっても大変なことなのです。
如来様と言えば大日如来様や阿弥陀如来様、薬師如来様、釈迦如来様が有名ですが、他にも多くの如来様がおみえになります。如来とは来たが如く、つまり我々の世界と神様の世界を行き来する存在なのです。神様は我々の世界におみえになる時は光として現れるので、その実体はないのです。それでは人々はわからないので仏様、つまり如来として現れるのです。しかし、それは神様の御力の本の一部にすぎないのです。そのため、人々は仏様の存在を知ることで神様の存在を認識できるのです。ネコがカーテンに隠れて、その尻尾を出しているようなものなのです。こんな表現をすると仏教界の方々に怒られてしまいますが、江戸時代までは神社と寺院はともにあったのです。したがって僧侶も宮司も互いにその存在を認めあい、それぞれの立場をわきまえていたのです。明治の時代になって、天皇を崇拝させるために神社を中心にした宗教観を持たせるようにしたのです。神道を定着させるために神社と寺院を分離させたのです。
神社は地域ごとに格式があって、平安時代の頃からその地域の一番格式が高い神社を一之宮とし、それに準じて二之宮、三之宮としていったのです。しかし、それは人が勝手に付けたもので、神様をランク付けすること自体がおかしいのです。たしかに神様にも次元のちがいがあるのですが、それぞれにお役目が異なるのでそれを人間がランク付けすること自体がおこがましいのです。ちなみに、伊勢神宮や熱田神宮は神社のなかでも最高位の神社とされていますが、どちらもアマテラスノカミ様を御祭神としています。この神様は国津神なのです。その上の次元の神様が天津神なので、国之常立の大神様や天之常立の大神様の方が位が上になるのです。したがって神社や神様の格式は人が勝手に付けたものなのです。
話は仏様に戻りますが、菩薩様には地蔵菩薩様や弥勒菩薩様、文殊菩薩様、観音菩薩様、日光菩薩様、月光菩薩様などがおみえになりますが、菩薩とは本当は神様が悩み苦しんでいる人たちをよき方向に導いてくれるために、その次元を落として現れてくれた存在なのです。菩薩の菩とはムシロやシキモノを表わし、薩は産まれると同じ意味なので、ムシロに産まれることを表しているのです。つまり、産まれたばかりの存在、それは心が純粋無垢な状態を表わしているのです。菩薩様はただ人々のために少しでも苦しみから抜け出せるように祈り導いてくれる存在なのです。地蔵菩薩様は特に子どもたちを導き、弥勒菩薩様は多くの苦しみや悲しみを持っている人を導いてくれます。文殊菩薩様は文殊の知恵と言われるように、苦しい時や困難な状態に陥っている時にそこから抜け出す知恵を授けてくれるのです。観音菩薩様は音を観る存在、つまり音とは人が話す言葉を観ているのです。観るとは人の心のあり方を見通しているのです。そして、良き心を持った人には徳を与え、悪き心を持った人には改心させるためにさまざまな試練を与えるのです。ある意味で人を成長させる教官のようなお役目を果たしているのです。
明王様には不動明王様や軍荼利明王様、愛染明王様、烏枢沙摩明王様などがおみえになります。どの明王様もとてもいかついお顔をしていて、その形相はまるで鬼のようなところがあります。明王様は人の心の中にあるさまざまな欲や悪心を取り払ってくれるのです。すごい形相でにらみつけられると、人は改心させられるのです。不動明王様はとくに欲心を、軍荼利明王様は悪心を、愛染明王様は愛欲を改心させます。烏枢沙摩明王様は不浄な心を改心させるのですが、それが変わった形に解釈されてトイレの神様と言われるようになっています。つまり、汚物が不浄なものなので、それを浄化してくれると。それは人が勝手に解釈しただけで、この神様には失礼なことになるのです。