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新時代通信No132【日本の神々24】

22年02月28日

この通信は「日本の神々」についてお伝えします。多くの神が今、動き出しています。動くとは、それぞれの御役目を果たすためにその神様の御役目に沿った人とつながるのです。つながるとは、一つになるのです。ただ、多くの人はつながっていることを知りません。そのことを知るための方法があるのです。

 

神とつながっていることを知る方法があります。それは、日々感謝ができているかどうかなのです。人だけでなく、物や事象に対しても。辛いことや苦しいことに対しても感謝することができるのであれば、それは神とつながっている証拠なのです。そして、どんなに苦しくても前向きにいられることや、決してあきらめない心を持っていられることも。そして神を信じていられることも。特定の神ではなく、漠然とした神でよいのです。お天道様でよいのです。いつもお天道様が見ていてくださると信じていることが、神とつながっている証になるのです。ひと昔の日本では、多くの人がお天道様が見ているからと口癖のように言っていました。そのため、道にゴミを捨てることもなく、影で人の悪口を言うこともあまりありませんでした。いい意味でいつも神に見張られていると思っていたのです。もちろん悪いことをする人もいましたが、大方の人はお天道様を信じていたのです。しかし、戦後はそのような考え方はなくなり、人が見ていなければゴミを道や川に捨てたり、今ではSNSやフェイスブックなどで誹謗中傷の書き込みを匿名ならわからないと思い、とてもひどい内容を平気で投稿しています。

 

人が見ていなくても、神はいつも見ているのです。そのことを多くの人は信じていません。神社仏閣にはご利益を求めて熱心に参拝するのに、人が見ていなければ平気で悪いことをしてしまう人が多い現状を神はとても憂いているのです。やはり、神に対する考え方が歪曲されてしまっているのです。その一端を担っている神職や僧侶の責任はとても大きいのです。自分たちが心から神仏を信じていないから、今のような状態になっているのです。まずは神職や僧侶がお手本とならなければならないのです。そのためには、日々感謝と善行を実践するしかないのです。それを多くの人が見てまねていくのです。神仏に仕える身としての自覚が問われているのです。いくら立派なことを言っても、日々の行いが伴っていなければ人の心を動かすことはできません。お経や祝詞をいくら唱えても、日々の行いが伴っていなければ神仏に通じるものではありません。

 

今、神界、仏界におみえになっている多くの神仏がどんどん人間界に降りてくださっています。そして、それぞれの御役目に沿った人に降臨しているのです。何度もお伝えしているように、多くの神社仏閣には神仏はいません。これからは人に降りてくるのです。このことは日本だけの特別なことなのです。他の国ではほとんどないことなのです。なぜなら、多くの国は一神教なので日本のように多くの神を信じることができません。そのため、神仏とつながるためには全員が同じ考えを持たなければならないのです。人はそれぞれに異なった考えを持っています。たとえ一つの神仏を信仰していても、考え方はさまざまなので神仏もつながりようがないのです。つまり、それぞれの人の神仏に対する考え方が異なっているということは、裏を返せば神仏の存在を心から信じていないのです。信じている振りをしているだけなのです。
もちろん、一神教の人たちの中には神仏を心から信じている人もいます。それらの人は極わずかで、多くは信じていると見せかけているのです。なぜなら、そうしないとその社会では生きていけないからです。長い歴史の中でそれぞれの地域で信仰されてきた神仏は、その地域を支配する権力者の道具として使われてきたため、神仏を信仰することを強制されてきたのです。信じなければ命はなかったのです。神仏を信仰させるためにさまざまな戒律を作り、否応なしに信じさせられてきたのです。イスラム教は特にその傾向が強く、日に数回の拝礼や定期的な断食、さらには禁酒や女性蔑視は神を信じさせるための方法なのです。キリスト教も週に一度の礼拝も同じなのです。すべては権力者の支配下に置くための手段なのです。長年の習慣からそれが当たり前と思ってやっているので、多くの人は疑問に思わないのです。逆に言えば、そう思わせているのです。宗教とは人が作ったものであり、時の権力者が人々を支配するために作り上げたものなのです。

 

日本も神道ではさまざまな儀式があり、仏教でも同じようにさまざまな法要があります。これらもある意味で神仏を信じさせる手段ではあるのですが、一神教と異なるのは強制ではないのです。あくまで自主性を大切にしていることなのです。もちろん義務で参加する人もいますが、その多くは進んで参加しているのです。強制と自主性の違いが大きな分かれ道となるのです。初詣は強制ではありませんし、神社のお祭りもそうです。お寺の法要や檀家の集まりもそうです。基本的には自主性なのです。神仏を信じることは自由なのです。そしてどの神仏を信じるのかも。一神教の人たちはその自由を奪われてきたのです。さらには、自分たちが信じる神仏が絶対であると信じ込まされてきたのです。まさしく小さい頃からマインドコントロールされてきたのです。それはある意味で新興宗教と同じなのです。極端な言い方をすれば、オウム真理教と同じなのです。さすがにここまで書いてしまうと、私の命が危ぶまれるのでここまでにしておきます。

 

何度もお伝えしていますが、宗教は人が作ったもの。神仏をどのように信じるかは自由なのです。時にはことなった神仏を信じることもよいのです。ただ、大元の神は一つであることをしっかりと認識していればよいのです。さまざまな神仏が存在する以上、必要に応じて信じていけばよいのです。ちなみに私は今、大元の神を信じながら自分の御役目がしっかりと果たせるように、経済的な安定が成り立つように金運を運んでいただく神様を信仰しています。決して私利私欲のためではなく、通常の仕事が成り立たないとこの通信も含めたお役目ができないので、最低限の経済面が保証されるようにしていただくため、この神様を日々意識して感謝をお伝えしているのです。その神様はカナヤマヒコノカミ(金山彦神)とカナヤマヒメノカミ(金山姫神)で、古事記ではイザナミノミコトの嘔吐したものから生まれた神とされ、鉱山や包丁の神として崇められています。しかし本当は金の山を授けてくれる神様なのです。金はお金でもあり、幸運でもあるのです。だれでもお祈りすれば金運を授けてくれるわけではありません。人のために何かしらをすることを成就させるためのお金であり、幸運なのです。したがって、いくら宝くじが当たるようにとか、競輪や競馬が当たりますようにとお願いしても叶うわけではないのです。

 

この神様のお力がどのように現れてくるのかがとても楽しみなのです。決して私利私欲に使うのではなく、人のために、そして自分の役目をより果たせるように使っていけば、きっとこの神様も応援し続けてくださると信じています。ちなみにこの神様が祀ってあるのは、高山の飛騨護国寺の境内の片隅にあります。もちろん他にもこの神様が祀られている神社は多くあります。一度訪ねてみてはどうでしょうか。

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