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新時代通信No116【日本の神々8】

22年02月03日

この通信は「日本の神々」についてお伝えします。国津神はスメラミコトがお創りになったことをお伝えしました。神代文字によって創られた国津神は、時代と共に人々の生活に密着するようになり、それぞれのお役目をスメラミコトから教えていただくことで、その御役目にふさわしい名前を付けていったのです。

 

イザナギノミコトは漢字では伊邪那岐命や伊弉諾命と書きます。いざなうとは、誘うという意味です。何を誘うのか、それは邪気を誘い出し、人の心を清らかにするのです。つまり、人はだれでも善の心と悪の心を持っています。悪の心には邪気が取りついていると考えられていたのです。そこで、この神がこの邪気を誘い出し、悪の心をなくさせたのです。ギとは本来は義と書くのです。義は人として本来行うべき道筋を表しています。伊邪那岐命は人の悪心を正し、人として正しい行いをしていくようにさせる神なのです。国津神の多くはミコト、つまり命や尊で表しています。なぜ神としないのか、それは天津神と区別するためで、ミコトの本来の意味はミが神を表し、コトが言、つまり神代文字を表しているのです。神の言葉がミコトで、それを命や尊で表しているのです。まさしくスメラミコトが神代文字によってお創りになられた神を表しているのです。イザナミノミコトも同じで、伊邪那美命と書くのは邪気を誘い出し、心を美しくさせる神なのです。イザナミノミコトがお働きになると、その後に清らかな風がそよぎます。いわゆる聖風です。心を清めてくれるのです。

 

他にも多くの命がおみえになりますが、すべてその命のお働きを表しているのです。ニニギノミコトは邇邇芸命と書きます。とても難しい漢字ですが、本来は近いところという意味なのです。何が近いのか、それは人と神が近くなるように働きかけると言う意味なのです。つまり、神といつも一つになれるように導いてくれる命なのです。ギとはやはり義を表わし、人としての本分を果たすことで神と一つになると言う意味なのです。ニニギノミコトは人がいつも神と一つになれるように、人が横道にそれないように導いてくれる命なのです。スサノオノミコトは須佐之男命や素戔男命と表します。スとは主、つまり大元の神を表し、サは補佐することであり、オノは男ではなく己なのです。つまり、大元の神のお働きを代行して、我が身のようにしてお働きになられる命なのです。大元の神は直接動かれることはありません。大元の神の意をくんで多くの神や命がお働きになっているのです。その中でも特にスサノオノミコトが精力的にお働きになられるのです。

 

このように国津神はそれぞれ名に、その御役目の意味が込められているのです。残念ながらその意味を知る人はほとんどいません。古事記によって本来の意味が消されてしまったからです。ある意味で古事記は日本古来の神々のお役目やその素性を消すために作られたとも言えるでしょう。なぜそこまでしたのか、何度もお伝えしているように、2000年前から朝鮮半島からやってきた王族が、スメラミコトと姻戚関係を結んで日本を統治していったのですが、自分たちが日本古来の正当な血筋を持つことを世に知らしめるために、このようなことをしたのです。日本書紀はまさに中国にそのことを知らしめるために書かれたものなのです。しかし、当時の中国はすべてを知っていたので、まったく信じていませんでした。
国津神はこのようにその御役目が名前に表されているのです。少しずつそれをご紹介していきます。ちなみにムーの民の魂が神になった現津神の多くは、その名前の最後に姫が付きます。媛とも書きますが、その多くがムーの時代に巫女をしていたのです。コノハナサクヤヒメノカミやククリヒメノカミ、セオリツヒメノカミ、イワナガヒメノカミなどがそうです。古事記では国津神と現津神がごちゃごちゃになっていて、勝手に夫婦にさせられたり、親子関係にさせられているのです。この神々はまったく次元が異なる神々なので、いかに古事記がでたらめなのかがおわかりになるでしょう。現津神を表す言葉がもう一つあります。それは、神の名前の中に男や女の文字が入っているのです。元は人として生きていたので、当時のことを表しているのです。彦もその一つです。その名前によって大方がわかるのです。

 

国津神は天津神のお役目を代行する神であり、現津神は人々の暮らしを支える神でもあるのです。今、多くの現津神が人と一つになるために降臨されています。そのお役目に叶った人に。そして仏界からも。仏界は元々なかったのですが、人々が神の存在をより身近に感じるように、大元の神の命で創られたのです。つまり、見えない神の存在を仏の形に具現化したのです。天津神がその次元を下げて、さまざまな仏をお創りになったのです。ある意味での分身なのです。仏界もさまざまな仏様がおみえになるのですが、如来様は思いのままに来ることができる仏と言う意味なのです。どこに来るのか、私たちの世界と仏界を行き来することができると言う意味なのです。私たちの前にそのお姿をいつでもお見せになることができる仏様なのです。阿弥陀如来や釈迦如来、薬師如来に大日如来などがあります。仏像は空想で作ったのではなく、仏師が心の中で見た如来様を元に作ったのです。仏様にもいろいろありますが、多くの仏様は穏やかなお顔をしています。なぜなら、人はいつも穏やかな心でいなさいと説いているからです。

 

仏界にはさらに菩薩様がおみえになります。一番なじみ深いのは地蔵菩薩様です。菩薩とは人の苦しみや悲しみ、そして辛さを和らげてくれる仏様なのです。人は我欲があるゆえに苦しみます。その苦しみを少しでも和らげてくれるのが菩薩様なのです。地蔵菩薩様は特に苦しんでいる人の心を癒し、生きていくことの意味を悟らせるお役目をしています。実は、地蔵菩薩様がいつもそばにいていただいている人がいるのです。その人の多くは人一倍苦労し、それでもにこやかに穏やかにされているのです。まさしく生き仏なのです。その人のそばにいるだけで多くの人の心は癒されるのです。このような人は、すでに地蔵菩薩様と一つになっていて、人一倍苦労することで人の心の痛みを感じ取ることができるのです。このような人は意外と身近に多くいるのです。菩薩様には他にも弥勒菩薩や観音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などいろいろありますが、それぞれに人の苦しみや悲しみを和らげてくれているのです。

 

そして仏界では少し異質な存在が明王と呼ばれている仏様です。不動明王や軍荼利明王、愛染明王など、その形相たるや恐ろしいお顔をしています。これらの仏様は人の邪心や悪心をこらしめるお働きをされるのです。人である以上、どうしても我欲にとらわれてあらぬことを考えてしまうのです。そのような心を戒めるのがこれらの明王なのです。特に軍荼利明王は、人のマイナスな思いによって生じた邪気、つまり動物霊や妖怪、さらには悪魔などの邪神も成敗してくれます。ただ、人の心の中にある邪心は不動明王が担当してくれます。どちらもすざましい炎でそれらのものを焼き尽くすのです。似たようなお働きをするのが、毘沙門天様であり、須佐之男命様なのです。

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