この通信は宇宙のしくみをお伝えします。宇宙のしくみはとても多くが知られていますが、その本当の意味をまちがって理解されている場合があります。今一度本当のしくみを理解していただきます。一番多く勘違いされているのが、「引き寄せの法則」です。何かを思い続ければその願いが叶うとされていますが、多くは逆になるのです。
「引き寄せの法則」が知られるようになったのはあるユダヤ人が日本の若者に、自分の願いを口に出していつも言っているとそれは現実化していくと教えられて、実際にやってみると次々に現実化していき多くの富を得るようになったことが発端のようです。日本だけでなくアメリカなどでも同じようがことが起こってブームとなったのです。自分の願うことを口に出すことでその言葉のエネルギーがその願うことを引き寄せてくる、一見ウソのような本当のことのようなことですが、厳密には本当ですが注意する点があります。願うことがすべて現実化するわけではありません。自分の私利私欲的な願いは、まず現実化しません。逆にマイナスになっていくようです。自分の私利私欲を願い続けると、ある意味で現在の自分に対して満足していないことを認めていることになるからです。たとえば、もっと健康で長生きしたいと願えばそれは今は健康ではなく、さほど長生きできないことを認めそしてそれを願っていることになるからです。もっとお客さんがたくさん来てくれて商売が繁盛してほしいと願い続ければ、それは今はお客さんがあまり来なくて景気がよくないことを認め願うことになるのです。さらには、もっと幸せになりたいと願い続ければそれは今は幸せではなく、不幸であることを認めて願い続けることになるのです。
このようなことは、神社や寺院でのお願い事をすることにも通じていきます。多くの人が神社や寺院でお願い事をしますが、その多くは商売繁盛や安産祈願、良縁成就、合格祈願、交通安全などさまざまですが、基本的には私利私欲になるのです。願えば願うほどその逆なことを神仏に願うことになるのです。そんな願い事をいつもいつも聞いている神仏はいいかげんにしてほしいということになるのです。また、宮司や僧侶もご利益が叶えられるとあおるのでなおさらです。本来神社や寺院は、日々生かされていることに対してそのお礼を告げに行く場であり、そのついでに少しのお願い事をするのです。そしてその願いは自分のためではなく、人のための願い事が基本なのです。家族の健康や知人の願いが成就するようにとか、世界平和や一人でも多くの人が幸せになっていただくとか。そうすれば自分が願わなくても、家族や友人知人が願ってくれるようになるのです。そのことで願いが循環していき、人に対する思いやりのエネルギーが満ちあふれていくのです。
「引き寄せの法則」とは、人のことを思いやることで生じるエネルギーが回りまわってその人にめぐることで、願いが叶っていくのです。つまり、人に幸せになってもらいたいと願う思いが神仏に届くと、その願いは相手とそして願った本人に叶うように働くのです。神仏はある意味で公平な立場にあるので、自分のことばかり願う人には見向きもしません。人のことを懸命に願う人だけにその力をお示しになります。そして人のために懸命に願う人にそのご褒美として、その人の願いも叶えてくれるのです。
「引き寄せの法則」と言う言い方はあまり適していません。正確に言うならば「献身の法則」になります。人のために自分の利益を顧みることなく一身に願うことで、結果的に自分にもいくらかのご利益を受けることになる法則なのです。多くに人がこの法則を実践していけば、人を思うエネルギーがじょじょに循環するようになり、多くの人の願いが叶うようになっていくのです。そうすれば争いはなくなり、平和になっていくのです。今一番必要とされていることであり、そしてしなければならないことでもあるのです。今の世の中は自分の私利私欲を満たすための思いが充満しています。その思いはある意味でマイナスのエネルギーとなり、人の心をより我欲に満ちた方向に引き寄せていきます。「引き寄せの法則」とは、自分の私利私欲を願う思いが際限のない我欲を引き寄せる法則なのです。この法則を普及させたのも実はオリオンの高次元の存在で、際限ない我欲をもたらすことで人の心を低次元化させようとしたのです。
「引き寄せの法則」と同じように勘違いされているのが「鏡の法則」です。相手の人のいやなところは自分の心の中にあるものを写し出していると言われています。たしかにその一面もありますが、多くは自分が相手の考えや行動に対して違和感を感じ、さらに嫌いになっていった時に生じるエネルギーが相手に伝わってそのいやな言動を増長させるのです。つまり、嫌いだと思う念が相手に嫌いな言動よりさせてしまうことになるのです。もっとシンプルに言えば、いやだいやだと思うほど相手はいやな言動をするのです。それがわかれば、相手に対してイヤだと思わなければいいのです。ではどうしてイヤだと思うのか、それは嫌いと相手を思うからで、嫌いになる原因はさまざまですが、相手のちょっとした言動が自分の感覚とずれているとイヤになり嫌いになってしまうのです。特に食べ物や趣味、音楽などの好みのちがいで。なにげないずれを感じ、それが強くなっていくとイヤになり、そして嫌いになっていくのです。最初はちょっとしたことなのです。特に身近にいつも接している人ほど感じやすくなるのです。「鏡の法則は」は自分のイヤなところを相手が写し出しているのではなく、相手をイヤだと思う心が嫌いな言動をさせていくのです。
人はそれぞれに考え方や好みがちがいます。ちがっていて当たり前なのですが、日本人はどうしても同調性を気にします。みんなと同じでなければいけないという暗黙のルールがあるのです。しかし、このルールは昔からあるのではありません。明治政府が国民に統一した考え持たせるために、小さい頃からそうなるように教育していったのです。ある程度は必要ですがだんだんとその傾向が強くなり、戦後ますます強くなっていきました。戦後は大企業が一律同じような人材を求めていたのです。製造を中心とした産業が発展していくためには、物を均一にそして正確に作ることができる人材が必要だったのです。そのためには周りの人といつも同調し、自己主張をあまりしない人が求められたのです。そのため、文部省とその配下の教育委員会と手を組んで金太郎飴のように、どこを切っても同じ顔になるような教育をしてきたのです。そのため、同じ顔、つまり考え方がみんなと同じでないと排除されるようになってきたのです。そのため、いじめが多くなり、それが原因で不登校や引きこもりになり、さらには自殺に発展してしまうことがあるのです。それは大人の世界でも。今の学校教育を大変革しないといじめや自殺はなくならないのです。大変革とは、一人一人の個性を尊重する教育です。しかし、多くの教師はわかってはいてもできません。教育委員会、そして文部省の考えが変わらないからです。教師が個人的に変えようとするならば、やはり排除されるでしょう。個性を尊重した教育をしないと社会は変わりません。そのためには通常の義務教育ではない教育を興して必要があるのです。それは自然の中でさまざまなことを体験し、自分の好きなことを見つけるための教育です.