漢方コラム

お問い合わせ

新時代通信

新時代通信No60【世界の歴史6】

21年10月27日

この通信では世界の歴史をお伝えします。東洋では仏教が歴史を作ってきました。中国の唐の時代、三蔵法師がインドから経典を持ち帰って仏教が広がったとされています。しかし、その前から仏教は中国に広がり始めていたのです。シルクロードを渡って。仏教は中国の民にとっては受け入れやすいものでした。なぜなら、偶像崇拝だったからです。

 

中国に仏教が入ってくるまでは儒教や道教が盛んでしたが、一般の民には儒教は難解で、道教もむつかしいところがあってなじめませんでした。そこに仏教が入ってきて、仏が目に見える形の仏像であったので民は親しみを感じるようになりました。また、お経を唱えることで仏の元に行けると信じるようになったので、だれでも身分に関係なく入信できることもあってじょじょに広がっていきました。その頃、唐の皇帝は悪名高き則天武后がほしいままにしていたのですが、自ら仏教を信じるようになり寺や寺院の普及に力を入れました。しかし、その裏にはそれまで儒教を中心にしていた官僚の勢力を弱める目的があったのです。当時、官僚になるための試験である科拳は儒教を中心にしていたため、儒教を衰退させれば官僚の勢力も弱まると考えたのです。官僚は皇帝にとっては目の上のたん瘤で、則天武后はとても毛嫌いしていたのです。そのため仏教を普及させることで儒教を中心とした科拳と官僚の勢力を弱めようとしたのです。

 

その後、中国では仏教が瞬く間に広がり、逆に国に対する不満をあおるような状態になってきました。その頃の仏教は仏の前ではみな平等であり、仏を信心すればだれでも極楽浄土へ行けると説いていました。そのため、民を搾取する役人やそれを動かしている官僚、さらには皇帝に対する不満が高まり、各地で暴動が起こるようになり、それまで国として庇護していた仏教を弾圧するようになりました。寺や寺院を破壊したり、僧侶を牢屋に入れたり、さらには仏を信じる民を虐殺しました。しかし、それは火に油を注ぐようなもので、民はさらに暴動を起こし集団化してその勢いを強めていきました。それをうまく利用して唐の国を乗っ取ったのが後の宋。宋の時代になるとまた科拳を復活させて官僚政治が行われるようになりました。仏教は細々と信者の支援を受けて残っていました。宋は最終的にはモンゴルのチンギス・ハーンによって滅ぼされるのですが、その時多くの僧侶が日本や東南アジアに逃れていったのです。日本ではその頃、鎌倉時代で仏教を容認していたので多くの僧侶を受け入れました。その一人が後の禅宗の曹洞宗を広めていったのです。

 

日本でも平安時代から人々の心の安寧を保つために仏教を奨励していきました。しかし、やはりその裏には貴族の権力を強める意図があったのです。当時は武家の力が強かったので、貴族は肩身の狭い思いをしていました。そこで仏教を普及させることで主に農民を扇動して一揆を起こさせ、武士の力を弱めようとしたのです。そのため貴族はあらゆる手を使って仏教を広めようとしました。巨大な大仏を作らせたり、僧侶を中国に行かせたり、また中国から高僧を呼び寄せたりと。結果的に仏教は広く普及していったのです。どの宗教も時の権力者の道具として使われてきたのです。ただ、仏教は仏を純粋に信じることだけを信条としていたので、異教徒を敵対視したり、無差別な人殺しはしませんでした。

 

仏教は中国を経由して朝鮮や日本、そして東南アジアに広がっていきました。東南アジアではそれまでは土着の神々を信仰していたのですが、やはり当時の国王が民衆の心をまとめるために仏教を奨励して広げていきました。タイヤミャンマー、ラオスにベトナムでは国の宗教として仏教を公認し、立派な寺院が建てられるようになりました。これらの国では仏教は自分のためだけではなく、国のため、そして多くの人のために仏に安寧を祈ることを推奨しました。そして僧侶は民衆を代表して仏に仕える存在として尊ばれたので、民衆は僧侶をとても大切にしたのです。今でも僧侶は自ら食事を作ることはなく、周りの人たちが差し入れをしています。さらに、僧侶になるために幼い頃から出家して、親元から離れる子供も多くいます。熱心な信仰だと思われていますが、実は家が貧しくて子供に十分な食事を食べさせることができない家庭が、食い扶持を減らすために子供を小さいうちに出家させて寺に引き取ってもらうのです。ある意味での孤児院の役割を果たしているのです。東南アジアの寺院はとても派手やかな外観をしています。金箔や金色の漆をふんだんに使い、仏の像も金色です。これは国王などの権力者が、民衆に対して仏を信じてさらに国王を仏のように思わせるためなのです。

 

東南アジアの国王は、古くからその国を支配してきましたが時折民衆の反乱におびやかされることがありました。そのたびに国王は避難せざるおえない時があったので、その避難場所として寺院を作ったのです。つまり、反乱がおきた時に寺院に避難すれば民衆もさすがに仏様を祀っている所を襲うことはないと考えたのです。そのため、寺院はより豪華絢爛にされたのです。さらに寺院を豪華にすることで国王の権威を民衆に見せつける意味もあったのです。現在も国王が現存するタイ、カンボジアでは仏教を奨励し、そして国王を敬愛しています。国王が国民を代表する仏教徒でもあるのです。そこには仏教による国王への忠誠を高める意味もあるのです。その他の東南アジアの国は現在、社会主義や軍による統治がなされているため仏教はあくまでも個人的なものになっています。

 

チベットはその独自な宗教観で仏教を発展させてきました。チベット仏教もやはり国王の権力を強めるために奨励されたのですが、国王自身が熱心な信徒になりそしてチベット仏教の頂点である高僧となったのです。つまり宗教と政治が合体した形になったのです。そして国王は代々その魂が生まれ変わって転生するとされ、国王が亡くなるとしばらくしてその国王の生まれかわりの子供を見つけ出し、宮殿で国王としての英才教育をしていくのです。そのため国王を教育する専門の僧侶がいて、仏教のことや政治のことを徹底的に教えていくのです。したがって権力争いや民衆の暴動はなく、平和な国を維持することができたのです。しかし、先の大戦のどさくさに紛れて中国がチベットを占領したため、それまでの王政は廃止され共産党による思想の大改革が行われたのです。多くの僧侶が虐殺され、国を統治していたダライラマ14世を殺害しようとしましたが、14世はチベットを脱出してインドに亡命しました。その後、チベット仏教の最高責任者として世界中にその存在を知らしめてきましたが、引退後は後継者の育成に力を注いでいます。チベットでは共産党による社会主義の思想を植え込むために小さい頃から思想教育がなされ、さらに言葉もチベット語を話すことを制限し、中国語を話すように強要されています。宗教も通常の仏教は許されていますが、チベット仏教を勝手に信仰することは許されていません。共産党による思想の洗脳が行われているのです、しかし、いつまでもこのようなことが続くことはありません。神仏を信じる力は人の力には及びません。いずれチベットの人たちは自らの手で自由を勝ち取ることになるでしょう。後1年もすれば。この通信は2021年の10月の下旬に書いています。

ページTOPへ戻る

電話する

お問い合わせ