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新時代通信No45【日本の歴史】

21年10月14日

この通信は日本の歴史についてお伝えします。日本の歴史は謎に満ちています。私たちが教わってきた歴史の大半は、その時代の権力者の都合のいいように捏造されています。真実を知らなければ日本人としてのアイデンティティを持つことができません。日本人としての誇りを持つために真実を知って下さい。

 

日本の歴史は縄文時代からスタートします。今から1万年以上前の土器や集落跡の遺跡からその生活様式がわかってきましたが、まだ発見されていない遺跡も多く、実際には3万年前から日本列島で暮らしていたようです。では、そのルーツはどこから来たのか、いろいろな説がありますが、縄文人の多くは宇宙人が他の場所から運んできたのです。それは太陽系の外側にある惑星から。その惑星はすでに存在していません。星の寿命が尽きるのがわかっていたのでそこに住んでいた人たちを宇宙人がUFOに乗せて、一度他の惑星で地球の環境に適合できるように遺伝子を操作して、さらに考え方や価値観を再教育してから地球に連れてきたのです。およそ1億年かけて。なぜそのようなことをしたのか、地球ではすでに人類が1000万年前から生活していましたが、何度も戦争をくり返しては自滅していたので、平和に暮らすことができる人類を新たに創ってその人類を増やそうとしたのです。

 

その目的を果たすために、宇宙人は縄文人に生きていくための最低限の知識と技術だけを教えました。それ以上のことを教えるとまた文明を興して戦争をくり返す可能性が出てくるからです。そのため、縄文人は原始的な生活をしていたのです。しかし、実際はかなり高度な知識や技術を持っていました。たとえば船を使って北海道から九州までを行き来し、それぞれの土地で取れるものを運んで物々交換をしていました。丸太船ではなく、数十人は乗ることができる帆船を使っていました。時には中国大陸や朝鮮半島まで行って、交易をしていました。特にヒスイやメノウの加工品を作ることに長けていたので、交易は盛んでした。また、住居は三階建てに匹敵する高さのものを作り、最上部は他の集落との連絡を取るために使われました。いわゆるのろしのようなもので。二階部分は食料を保存し、一階部分で生活をしていました。その周りを平屋の住居が円を描くようにして住んでいたのです。

 

その代表的なものが青森の三内丸山遺跡なのです。他にもあるのですが、まだ発見されていないだけなのです。三内丸山遺跡は縄文人と富士文明の民が融合して作りました。富士文明の民は富士山の噴火で全滅しましたが、わずかに残った民が青森まで避難してすでに住んでいた縄文人と融合して暮らすようになったのです。そのため縄文人はより高度な知識と技術と身に付けるようになりました。縄文土器は有名ですが、人の形をした土偶がいくつか発見されています。中でも宇宙服のようなものをかたどった土偶の一つに、遮光器土偶があります。これはまさしく宇宙人を現わしているのです。自分たちを育てそして地球に連れてきてくれた宇宙人をしのぶために作ったのです。宇宙人は縄文人が地球での生活がなじむまでそばにいてくれたのです。土偶は他にもいろいろありますが、宇宙人をかたどったものが多いのです。

 

縄文土器の模様とその形は特徴的ですが、どうしてこのような形になっているのかははっきりわかっていません。まずその模様ですが、縄で付けたとされていますがこれは縄ではなく、ある種の道具を使っているのです。それは宇宙人から授かった道具で、文字の代わりに線によって縄文人の成り立ちや宇宙人との関係を説明しているのです。後世に残すために。また、形は宇宙の成り立ちと生命の誕生を現わしているのです。儀式のために使われたのではありません。宇宙人から受けたことを後世に残すために作ったのです。模様は文字の代わりだということが少しずつ解明されています。いずれは明確にわかるようになるでしょう。

 

縄文時代の主食は栗やクルミ、粟に稗、そして魚や貝に海藻類を食べていました。栗やクルミは長期保存ができるので栽培もしていました。時にはイノシシやシカ、ウサギの肉も食べていましたが、それは毛皮を取るためのものであって肉はその副産物として食べていたのです。他にも虫の幼虫やキノコ類なども食べていました。それらを土器で煮たり焼いたりし、また乾燥させて保存もしました。食べることに関してはさほど不自由することはありませんでしたが、病気やケガに対する知識がなかったので寿命は長くありませんでした。しかし、家族を中心に助け合って暮らしていました。

 

今から5000年前頃から大陸から海を渡って日本列島に移住してきた人たちを総じて弥生人と言います。正確には中国大陸からと朝鮮半島からと、もう一つは樺太から渡ってきました。特に中国、朝鮮からの移住者が多く、九州や中国地方に定着して独自の文化を築いていきました。有名なのが稲作です。縄文人は米を作ることはしなかったので、弥生人との区別がはっきりします。さらに弥生人は製鉄技術や狩猟技術が高度だったので人口はどんどん膨れ上がり、縄文人の住んでいる土地を奪っていきました。中には縄文人と弥生人がいっしょになることもありましたが、多くの縄文人は土地を奪われて北へ北へと移住していきました。また、一部は南へと。その末裔がアイヌの人と沖縄の人なのです。堀の深い顔に濃いひげが特徴的です。

 

弥生人はその勢力を拡大しいき、今から2500年前には関東まで進出していきました。その遺跡から土器や装飾品、さらには住居跡が数多く見つかっていますが、かなりの文化を持っていたようです。しかし、とても貪欲で縄文人をかなり殺したようです。その証拠が縄文人の遺骨からうかがえます。弥生人の遺跡の近くに、縄文人の遺骨が多く埋められていることがよくあるのです。そしてその遺骨には折られた痕や縛られた痕が残っているのです。縄文人は原始的な暮らしをしていましたが、とても平和的で争うことをしなかったので、弥生人にとっては簡単に殺してしまうことができたのです。それはスペイン人が南米のインカやマヤの人達を虐殺したのと同じです。このような仕打ちを受けたため、縄文人は北と南に逃れていったのです。

 

弥生人はやがて、さらに中国や朝鮮からの移住者によって何度も世代交代していきました。そして、今から200年前に古墳時代と呼ばれる時代に入ったのです。古墳時代の立役者となったのは、中国の当時の呉の国が戦いに敗れて王を中心に多くの人が難を逃れて移住してきたのです。高度な技術と戦闘能力を持っていたので、それまでの弥生人はあっという間に制圧されて、その支配下に置かれたのです。したがってこの頃から文化様式が一変するのです。古墳時代の特徴は何と言っても古墳です。これは権力者の墓だと言われていますが、実は外国からの敵に備えた防御壁なのです。大きな古墳は当時、海の近くに作られています。海からの侵略を防ぐために作られたのです。

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