2018年3月のれいこん通信は魂の性質についてです。
目に見えない魂をどのようにとらえるか、いろいろな考え方があります。参考になるのが中国の孔子が広めた儒教の考え方です。「仁・礼・信・義・知」を人の「道」といいます。道なるものが魂の性質を現わしていると漢方では考えます。そしてこの世に生まれてきた目的は、魂が五常=「仁・礼・信・義・知」を認識するためであるといわれています。
魂かこの世に生まれてくる目的は、個々の魂がその存在を再認識するためだそうです。
あの世で魂は、自由に何でもできるので楽しいことばかりで、何一つ苦しむこともなく悩むこともありません。
そのためその存在自体が希薄になってくるのです。
そのためこの世に生まれてくることで、改めてその存在を認識するのです。魂の存在する意味が「仁・義・礼・信・知」なのです。
「仁」とは人に対する思いやりです。人に対する愛の表現の一つです。
仁の表現方法の一つが「礼」です。礼をつくすことが思いやりの表し方でもあるのです。しかし形ばかりにとらわれてしまうと、返って苦しいものになってしまいます。
「信」は人を信じること。愛の表現の一つですが、信じることで人との絆を深めます。
人との絆を深める方法が「義」です。
義とは契りを交わすことです。男女の契り、兄弟の契り、親子の契りなど人と交わすことで愛を表します。
「知」とは、人の心を知るということです。人の心を知るということは、相手の気持ちを察するということです。
思いやることと似ていますが、知は相手の考えを読むことであり、仁は相手の心を読むことです。考えと心のちがいは、感情です。
喜怒哀楽を読むことが仁、現実を見ることで感じたことを考えることが知になります。
「仁・礼・信・義・知」を「道」といいます。
人は道を歩むことによって魂の存在を認識するのです。
別の見方をすれば、人の道から外れることで魂の存在がわかるのです。
非道な行いをすることで、良心の呵責にさいなまれるのです。
この良心こそが魂の本質なのでしょう。人は道を求めるために生まれてきたといわれています。
いろいろな道がありますが、最終的に行きつく所は同じでしょう。
道から外れることで道の存在を知ることが、人として生まれてきた大きな課題でもあるのです。
しかし今、多くの人があまりにも外れてしまい、道を見失っています。そのために天から大きな禍が下されているのではないでしょうか。
何十年、何百年に一度の自然災害が世界中で頻繁に起きていることを、単なる温暖化の影響と考えるのではなく、真摯に受け止める必要があのではないでしょうか。
昨年末から話題となった相撲の貴乃花親方。
発端は日馬富士の暴行事件ですが、その根底には今の角界の相撲道に対する認識の低下を憂いての行動ではなかったのでしょうか。
モンゴル力士にはなかなか相撲道を理解することができないため、どうしても勝つことを優先させてしまいます。
一つのスポーツとして考えている側面があります。
そのいい例が元横綱の朝青龍です。勝つためには何でもするぞという考えが根底にあるのかもしれません。
それに憤りを爆発させたのでしょう。
柔道もオリンピック種目になってからは、本来の道から遠ざかりつつあり、ましてや我々医療に従事する者の多くは、ずいぶん前から道から外れているようです。
「医は仁術なり」を私も含めて再度認識したいものです。